03.

 王宮にたどり着くと、辺りは騒然としていた。
 焦燥しきった人々の表情。苛立ちを見せ、不安げに瞳を揺らし、あちこちを行ったり来たりしている。偉そうな人物も、何ということのない一門番も、皆一様に疲れ切っているのがありありと窺えた。
 そんな中、馬に乗って帰還した二人の若者。彼らを発見したときの人々の反応はすさまじかった。溜息の入り混じった歓声を上げ、中には緊張の糸が切れ泣き出す者もいる。シェリアスティーナはそのあまりの出迎えぶりにたじろいだ。まさか聖女の行方不明が、こんなにも大きな混乱を招いていただなんて。聖女という存在の大きさを、まざまざと見せつけられたような心地だ。だがまあ、確かに聖女が消えたとなれば国を巻き込む一大事だろう。これでその上死んでいたとなれば、……その時の混乱ぶりは想像するだに恐ろしい。
「皆の者、聖女シェリアスティーナは無事お戻りになられた。大変お疲れではあるが大事はない。各自持ち場に戻り、仕事を再開せよ。――伝令、速やかに捜索隊に帰還するよう伝えるように。以上だ」
 馬上から男が鋭く告げ、場の収拾がつけられた。よほど権力のある人物なのか、誰も口を挟むことなく、言われたとおり散り散りに持ち場へと戻っていく。聖女はどこに行っていたのか、なぜこんなにボロボロの姿をしているのか、問いただしたいことはたくさんあったであろうに、誰一人として文句を言う者はいないのだ。感心しているうちに、シェリアスティーナは門の奥まで連れて行かれ侍女たちに預けらた。男は名も告げず――向こうにとっては初対面ではないから当然だが――忌々しげにシェリアスティーナを一瞥すると、「では失礼」と言葉も少なく立ち去ってしまったのである。
(な……なんなんだ)
 シェリアスティーナはどっと疲れを感じて息をついた。
 いきなり混乱の渦に突き落とされたというのも原因だろうが、なによりもあの青年の刺々しい態度が真綿のようにシェリアスティーナを締め上げ、苦しめた。どうも彼は、勝手に行方不明になった彼女にただ怒っているのではないようだ。そんなものを超越した、憎しみのようなものさえ感じられる。自分を見つめる瞳がなんの濁りもなく真っ直ぐだったのはあの沢での一瞬だけ、その後はただ侮蔑するような歪んだ視線を向けるのみだ。
 何もなくて、あの態度はないだろう。おそらく自分の与り知らぬところでひと悶着あったのに違いない。しかしそれを知る術は、今のところ無さそうだ。今ここで傍らの侍女たちに「私とあの人って、なぜこんなに仲が悪いんでしょうか」などと質問すれば、頭がおかしくなったと思われるに違いない。
 釈然としない気持ちはあるものの、どうにかそれを押さえ、シェリアスティーナは侍女に手を引かれるまま近くの部屋に入って行った。

 間もなく部屋に初老の男性が入ってきた。医者だという彼は、手際よくシェリアスティーナの様子を見、擦り傷程度の傷しかないことを確認する。非常に事務的で、労わりの一言すらかけてもらえなかったが、聖女に容易く声などかけぬものかもしれない。最後に「具合の悪いところはございませんか」とだけ尋ね、大丈夫だという答えを聞くと、さっさと部屋を退出してしまった。
 今度はまた部屋の移動である。同じように侍女に案内され、だだっ広い浴室に連れてこられた。そういえば自分はびしょぬれ、泥だらけ。あまりに情けない格好をしているのは聖女として好ましくないに違いない。本当ならば、医者より先に風呂に入らせいところだったのかもしれない。
 突然「失礼します」と声がかけられ、侍女がシェリアスティーナの服を脱がしにかかった。これにはシェリアスティーナもびっくりしてしまう。つい先ほどまでただの平民に過ぎなかった自分が、人に手伝ってもらって入浴するなど!それが貴族の常識だと知ってはいても、とっさに身を引いて拒んでしまった。
「シェリアスティーナ様?」
 いきなり拒まれ、怪訝そうに眉を顰める侍女たち。
「あ、いえその、ひ、一人で大丈夫ですから」
 おどおどとそう答えると、侍女たちは目をまん丸にして驚いた。
「どうかされましたか?」
「いえ、今日は一人で入りたい気分なもので」
「どうぞそのように仰らないでくださいませ。シェリアスティーナ様をお一人にすることはできませぬ」
 それには一理あった。一人で出かけると言い出して行方不明になった聖女だ、また何か奇行をしでかすとも知れない。見張りという意味でも、誰かが側にいなければならないのだろう。しかし。
「あの、お願いしますから。一人で入らせて」
「ですが」
「大丈夫だから!」
 思わず強い声を出すと、サッと侍女たちの顔に恐怖の色が浮かんだ。え? と思う間もなく、彼女たちは大仰に頭を下げ「申し訳ございません」を繰り返す。
「あっ、あの」
「大変失礼いたしました。私どもが悪うございました。すぐに他の者をお呼びしますので、どうぞお気をお静めくださいませ」
 気を静めるも何も。突然の侍女たちの怯えように、シェリアスティーナの方がうろたえてしまった。
「こ、こちらこそごめんなさい。あの、悪いのは私のほうでした。ですからどうかお顔を上げてください」
 どちらが侍女なのか分からぬ頭の下げ合いである。シェリアスティーナが謝れば謝るほど侍女たちは怯え、最後には顔面蒼白になって許しを請うてきたからもうどうしようもない。
(聖女なのに私が下手に出るからここまで恐縮しちゃってるんだ、きっと。でもだからってこんなに怯えなくても)
 オロオロしているうちに侍女の入れ替えが行われてしまい、こうなればもはや再び一人で入るなどと言える状態ではなくなった。仕方なく全てを侍女たちに任せ、死ぬほど恥ずかしい思いをしながら入浴を済ませることになったのだった。

 シェリアスティーナがやっと一人きりになれたのは、自室に戻った真夜中過ぎのことだ。
 戻った、といっても、今のシェリアスティーナには初めて入る部屋である。やたら広くて豪勢で、確かに王族同等の扱いを受けていることが窺えるようなとんでもない部屋だった。しかしもはや感動する気力すらなく、天蓋付きのふわふわのベッドに身を投げ出し、大きな溜息をついた。
(疲れた……。ものすごく疲れた……)
 右も左も分からぬ今の状態では、それも仕方ないことと思う。だが、これからそういう日々が毎日続くと思うと今からげんなりしてしまった。気負いのない町娘だった頃の自分が、さっそく懐かしくて懐かしくて仕方がなかった。
(ああ、でももう戻れないんだよね。私は、ユーナは死んだんだから。本物のシェリアスティーナの魂が戻ってくれば、今度こそ本当にあの世に召される。いなくなるんだ……この世界から)
 残酷なことを、とシェリアスティーナは思う。あの時あのまま完全に死んでいれば。それを思うと、少し神を恨みたい気分にもなった。じわじわと近寄ってくる死への恐怖に悩まされる日々を送らねばならない自分が少し可哀相だ。しかしこうなった今、常に死の影を意識して暮らすことは避けようのない必然だった。とても、頭から離れてくれそうにもない。自分は死ぬ、自分は死ぬ、近い将来必ず……。
 両親にも会えなくなるのは悲しかった。今の境遇が少し落ち着いたら、こっそり会いに行ってみようか。そう考えてから、少し戸惑う。きっと両親は、ユーナが死んで悲しんでいることだろう。そんな両親に会いに行く? 一体どんな顔をして? ――ああそうだ、私は親より先に死んでしまった親不孝者なのだ。とても合わせる顔なんてないじゃないか。
 何を考えても憂鬱になる。
 シェリアスティーナはのそりと頭だけ動かして、広い部屋を見渡した。部屋の隅に大きな姿見がある。そういえばまだ一度も自分の姿を確認していなかった。ふとそんなことを思い出して、シェリアスティーナはそっとベッドを抜け出した。恐る恐る、鏡に近づく。緊張しながら姿見の前に立ち、ゆっくりと、顔を上げてみた。
 ――そしてシェリアスティーナは愕然とする。
 なんだ、これは。これが人の姿なのだろうか?
 そこに映っていたのは、言葉も失われてしまうほどの絶世の美女だった。透き通るような白い肌、くっきりとした紫紺の瞳。淡い金髪は真っ直ぐ腰の辺りまで伸び、キラキラと光り輝いているようにも見える。小さく形の良い唇は、今は驚きのためかすかに開かれていた。瞬きするたびに長いまつげが揺れ、人の目を釘付けにすることだろう。そして――首もとには、聖女の証である「聖印」がしっかりと刻まれていた。
「うっ、わぁー……」
 確かに噂では聞いていた。聖女シェリアスティーナの美しさは、この世のどんな至宝にも勝るものだと。しかしそれは聖女を褒め称えるための美辞麗句の一つだろうと勝手に思い込んでいた。でも違う。単なるお世辞なんかじゃない。確かにこれほど美しい人物などそういないだろう。言うまでもなく、今までのユーナとは比べようもないほど全てが整った人物だった。
「これが……シェリアスティーナ」
 こんなにも美しい女性を前にして、侮蔑の視線を向けたあの青年のことを思い出す。
 この美貌だけで誰もがひれ伏してしまいそうなシェリアスティーナを、彼は憎んでいた。なぜ……?
(――もうっ、考えても仕方がないじゃない。やめやめ。とにかく今日は、もう寝てしまおう。明日からまた大変なんだから)
 ふるふると首を振って、思考をどうにか切り替える。そう、明日からが大変なのだ。今のシェリアスティーナには知り合いの一人もいない。周りは誰もが自分のことを知っている状態で、だ。そもそも今は、自分で自分のことすら分かっていない状態なのだ。遅かれ早かれ、回りにも不審の目で見られてしまうだろう。けれど神は願っている。シェリアスティーナの自殺が、誰の目にも触れぬよう。その事実がどこにも露見してしまわぬよう。ならば自分は、その神の願いを叶えるべく最善を尽くさなければならないのだ。
 今までの人生はもう終わった。そして最後の人生が今、始まったのだ。かつてユーナだった少女は、瞳を閉じ、しっかりとその事実を受け止めた。