09.

 細い通路を通り抜けると、その先もやはり同じように入り組んだ通路が続いていた。漆喰の壁がいくつも立ち並び、視界を狭めている。明かりはほとんどなく、じめじめとした薄暗い空間がシェリアの心をますます沈ませた。そして寒い。ひんやり、などという表現では表しきれぬほどに、寒い。シェリアはいたずらに身にまとっていたストールをしっかりと身体に巻き直したが、それでも凍えて体が震えた。
 ランプを手に進むイーニアスの後に続き、ゆっくりと歩みを進める。足を一歩踏み出すたびに、なんとも言えぬ異臭が強くなっていくのを感じた。何かが腐ったような臭い。汗とほこりと湿気が入り混じったような臭い。そして――生々しい、血の臭い。そういったものが混ざり合って、つんと鼻を衝いてくる。シェリアは思わず顔をしかめた。
 細い通路の両脇に、鉄格子が現れる。恐る恐るそちらに瞳を向けるが予想に反してそこには誰もいなかった。ぽっかりとした空間がただあるだけだ。しかし何かどす黒い怨念のようなものがそこに渦巻いているようで、シェリアは無人であることにほっとすることもできなかった。
 「うう」「あー」という奇声がだんだんと大きく響いてくる。苦しそうなうめき声。そこに理性の欠片は感じ取れない。そしてその声に被さるように低く響く、ずるずるという何かを引きずる音。次の瞬間には、鉄格子を掴み揺さぶる音が、甲高く響いて耳をつんざいた。
 もう限界だった。
 もう、十分思い知った気がした。そうだ、シェリアスティーナはどうしようもなく非道なことをやってのけたのだ。日の光の一切差さない、こんな狂気の世界へ、平気で人を追いやったのだから。そこに正当な理由など何もない。正当、いや、それどころかあまりにも不当な理由で。
 シェリアは思わず足を止めた。その両足が震えていて、上手く歩けない。振り返ったイーニアスが眉根を寄せてシェリアのすぐ側まで歩み寄った。
「シェリアスティーナ様、良いのです。このような場をご覧になっていただかなくても。私はただ――赦しを」
 怯えた顔を上げると、同情の色を浮かべた瞳と視線が合わさった。
「……どうして」
 思わず震える声が口から漏れる。
「どうして、そんな優しい表情を浮かべられるの?」
 イーニアスは不思議そうに軽く瞳を見開いた。
「憎いでしょう、私が。あなたの友人を不当にこんなところへ追いやったんだよ。それも、自分のことで因縁をつけられたようなものじゃない。あなた自身だって随分苦しんだはずだ。本当なら、私をこの地下牢にぶち込んでやりたいところでしょう? なのに、どうして、こんな牢屋の入り口で怖気づいてるような私に、そんな憐れみの瞳をむけることができるの」
「シェリアスティーナ様、私はそんな」
「――行く。ちゃんと全てをこの目で見るよ。会わせて、ネイサンに」
 彼は生来人を憎みきれぬ性質なのだろう。こんな場ですら自分を気遣うその優しさに、逆にシェリアは苛立った。しかしそれは彼に対する怒りではなく、そんな優しさを与えられる資格を持たぬ己に対する怒りだったのかもしれない。それでも彼の気遣いが、シェリアの心を強くした。戸惑うイーニアスを追い越すようにして再び歩みを再開すると、慌てたように彼もすぐ隣に並んだ。
 道は随分入り組んでいる。
 ぽつぽつと不規則に牢獄が並び、時にはその中に得体の知れぬ道具が転がっている。そして時には、どす黒く変色した大量の血の跡がこびり付いていた。
「うう……」
 低いうめき声がすぐ側で聞こえ、シェリアは飛び上がらんばかりに驚いた。振り返ると、薄暗い牢獄の奥で何かもぞりと動く影が目に入った。意を決して近づくと、耐え切れぬほどの悪臭がシェリアを襲う。それでもどうにか鉄格子のすぐ側まで歩み寄ると、中でかすかに身じろぎする男の姿を捉えることができた。
 男は、異様なほど痩せ衰えていた。ウェーブがかった黒髪が脂ぎっていて、ぴったりと頬に張り付いている。その頬はすっかり痩けて土のような色をしている。うつむいているためその表情までは覗えなかったが、その方がシェリアにとっては良かったかもしれない。
 男の両手両足は、無理やり一つにまとめ、がんじがらめにされていた。そのため不自然に膝を抱えて身を丸めているその男は、時々うめき声を上げるばかりでこちらを見ようともしない。側には完全に腐った食物の入っていたであろう小皿が転がされていた。食物はほとんどこぼれ出て、砂にまみれている状態だ。
「シェリアスティーナ様、どうぞこちらへ」
 男の様子を凝視して動かないシェリアを咎めるように、イーニアスはその腕を取った。抵抗することもできず、引かれるままに牢獄から身を放す。
 妙なうめき声や雑音が聞こえる方向は極力避け、イーニアスはシェリアを導いた。それでも牢獄には幾人もの囚人が絶望をまとって淀んでいる。どの囚人たちを見ても、一人として同じように収容されている者はいなかった。ある者は天井から鉄の鎖で宙吊りにされ、ある者は頭から鉄の面をすっぽりと被らされ、ある者は大量の虫の詰まった桶の中に放り込まれていた。壁一面に刃物がギラリと光る牢獄の真ん中では、今にも自ら刃へ突進していきそうな囚人がどうにか己の狂気と戦っていた。
 吐き気がする。
 しかしそう感じていたのも初めのうちだけだった。あまりに凄惨な状況に、シェリアの感覚は麻痺してしまったみたいだ。もう何も考えることができなくなって、シェリアはただひたすらにその光景を目に焼き付けた。
 どれくらい歩き続けただろうか。おそらく、距離にしてみれば大したことなどなかったのだろう。しかしシェリアには無限に続くと思われた苦渋の歩みは、不意にイーニアスのかけた一言をもって終わりを迎えた。
「……彼が、ネイサンです」
 やっとたどり着いた目的の牢獄は、他と違わず薄暗く、異臭が充満していた。そっと中を覗くと、赤毛の男が壁にもたれかかって目を瞑っていた。もしやすでに、と危惧を抱いたが、わずかに上下する胸の動きを見て、まだ生きているのだと知ることができた。
 彼もやはり痩せ衰え、肩を越すほどの髪はボサボサに広がっていた。上半身は衣服を何もまとっておらず、体中傷だらけだ。鞭で打ち付けられたような痕や、刃物で切りつけられたような痕が無数にある。しかし彼は特に何かの束縛を受けるでもなく、がらんとした牢獄の中、身一つで気絶していた。
「彼はあらゆる拷問に耐え抜いたと聞いています。――おそらくあなたの三ヶ月というお言葉が、彼をどうにか奮い立たせていたのでしょう」
 イーニアスは痛ましげな瞳を友人に向け、呟いた。
「普通なら、このホリジェイルに収容された者は一ヶ月と生き長らえることはできません。実際、今まで生きてここを出た者はいませんでした。それはシェリアスティーナ様も十分ご承知のことと思います。そんな中、彼は四ヶ月も耐え抜いたのです。ですからどうか、どうか、何卒彼にご慈悲を……!」
 台詞の最後は涙混じりに、イーニアスは跪いてシェリアに祈りを捧げるような動きを見せた。
「――やめてっ!」
 悲痛な声でシェリアは叫ぶ。途端に、地下牢は騒然とした雰囲気に包まれた。囚人たちが興奮し、暴れだしたのだ。つられて奇声を発する者、檻を激しく揺さぶる者。不気味な騒音が幾多も響き渡る中、シェリアは震えながらどうにか言葉を紡ぎだした。
「私、そんな風に、慈悲を乞われるような人間じゃない。そんな資格ないよ。聖女なんかじゃ……全然ない」
「シェリアスティーナ様」
「イーニアス、――イーニアス」
 これからしようとしている質問に対する答えは、あるいは完全に自分を打ちのめすことになるかもしれない。でも、事実から目を逸らしたくはない。
「この地下牢、あまりにも不自然な場所にあるよね?」
 目の前にある真実は、きちんと見据えなければ。
「王宮と密接に繋がりすぎてる。それに、入り口に見張りの兵の一人もいなかった」
 自分がこれから、シェリアスティーナとしてやっていくというのなら。
「王国の牢屋なら、普通こんな風に囚人を拷問したりしないだろうし」
 己の罪として、受け止めよう。

「――ネイサンだけじゃない。ここにいる全ての人が、私の命令で監禁された人々なんでしょう?」

 気付きたくなかった。けれど気付いてしまった。
 きっとこのホリジェイルは、聖女シェリアスティーナの気まぐれのために作られた場所なのだ。無実も同然の人々を、いたぶり、苦しめるために。
「……なぜ、今になって、そのようなことを?」
 非常に明確な答えが返ってきた。
 そうか。
 やっぱりそうだったんだ。
 どっと肩に何かが覆いかぶさってきたような気がして、シェリアは崩れ落ちそうになった。
 どんよりと篭った空気は、私への怨念の渦。低く響く囚人たちの呻きは、私への怨嗟の声。――ああ、シェリアスティーナ、あなたはなんて恐ろしいことを。
 シェリアはもう一度、ゆっくりと辺りを見回した。忘れぬようにこの光景を心に焼き付けなければ。この空間こそ、シェリアスティーナの心の闇そのものだ。
「シェリアスティーナ様?」
「……うん」
 シェリアはゆっくり、頷いた。
「戻ろう、イーニアス」
「し、しかし」
「ネイサンはもちろん解放する。彼だけじゃなく、他の全ての人もね。そしてここは潰してしまおう。もう二度と、こんなところへ閉じ込められる人が出ないように」
 そう言いながら、いつの間にかシェリアはぼろぼろと涙をこぼしていた。本当は泣くつもりなどなかったのに。でも止まらない。泣いて何になるというのだろう。むしろ安易な涙など、無実の囚人たちにとってはこの上なく穢らわしいものに映るだろうに。
「早く、誰かを呼ぼう。私じゃ、皆を、助けられないよ。私が、こんな目に、遭わせたっていうのに。早く、ここから出して、身体を拭いて、飲み物をあげて、傷の手当てして、温かいベッドで眠らせてあげよう――ああ……」
 ごめんなさい、とは言えなかった。自分が口に出すには、あまりに白々しすぎて。もはやそんな一言で片付けられる事態ではない。それでも涙は止められなかった。
「シェリアスティーナ様……」
 イーニアスは戸惑ったように、そっと手を伸ばしてシェリアの頬を伝う涙を拭った。そんな風に優しくしないで、とシェリアは心の中で叫ぶ。もっと憎んで憎んで、憎みぬくべきだ、自分を。――そう、あの人――アシュートが向けたような憎悪の瞳を、向けるべきだ。しかしその気持ちとは裏腹に、シェリアはイーニアスの温かい手を拒むことができなかった。
 いつの間にか意識を取り戻していたネイサンが、不思議な瞳でじっとこちらを見ていた。
 視線がシェリアと絡んでも、逸らすことも睨むこともしなかった。憔悴しきったその瞳から、何らかの感情を読み取ることはできなかった。