10.

 ドン、ドン、ドン。
 突然遠慮のないノックが響き、ライナスは目を落としていた書物から顔を上げた。
 夜更けに部屋の扉を激しく叩く痴れ者は誰だ。彼にしては不機嫌な面持ちで扉を開ると、そんなライナスを待ち構えていたのは、彼以上にむっつりと難しい表情をしたシェリアだった。後ろにはどこかで見たような記憶のある金髪の青年が控えている。
「どうしたんだい、こんな時間に」
「ごめんなさい。でもちょっと、他に誰に頼めばいいか思いつかなかったから」
 目の前の少女は、今朝方向かい合って話をしたときよりも随分気が立っているようだった。
「ホリジェイルのことなんです」
 シェリアの口から出たその単語に、ライナスは少なからず驚いた。
「もちろん、知ってますよね?」
 確かに知らぬはずがない。だが逆に、彼にはシェリアがその存在をすでに知っていたことに意外な思いを抱いていた。――まさかこんなに早くあの場所を知ってしまうとは。いつかは知れることになろうと思ってはいたが、それはまだ先のことだと考えていた。
「まあとにかく、入りなさい」
 シェリアと後ろの青年を部屋に招き入れ、ソファに座らせる。ふかふかのソファだというのに、二人とも随分居心地が悪そうだ。こんなところでくつろいでいる場合ではないという焦りの心境ゆえなのだろう。
「あの地下牢に閉じ込められている人を、全て解放したいんです」
 待ちきれぬというように、シェリアが早々に本題を口にした。
「また突然だね」
「分かっていますけど。でも、なるだけ早く。今晩中に」
「と、私に言われても」
 肩をすくめると、シェリアは明らかに苛立ったように眉を寄せた。
「あなたに言って駄目なら、言って通じる人に話をつけてきてください」
「なんだ、今朝とは違って随分強気だね」
 面白がってライナスは笑う。
「もう十分承知しているんでしょう? 私がどうしようもなくわがままな聖女だってこと」
「確かに」
 ライナスは苦笑して、側にあった紙にさっと走り書きをすると、手元のベルを鳴らした。間もなくやって来た使用人にその紙を託す。至急副宰相へ、と継げると、彼は小さく頷きすぐに部屋をあとにした。副宰相あたりに伝えておけば、後はうまくやってくれるだろうという考えがライナスにはあった。副宰相は以前からホリジェイルの存在を疎ましく思っていた人物だ。
「今ので、もう大丈夫なんですか?」
「安心しなさい。君が赦すと言ったのならば、その一言だけで国王を弑した不届き者でも無実となる」
 複雑な表情で、シェリアは黙り込んだ。
「さて」
 ライナスは一息おいて、目前の二人の様子を交互に見やった。
「シェリア、君にホリジェイルの話を持ちかけたのは、お隣の青年かな?」
 尋ねると、金髪の青年がかすかに身体をこわばらせた。そんな彼を庇うように、シェリアにしては荒々しく答える。
「だとして、なにか不都合でもある?」
「いや、不都合などないよ。ただ、そうだとしたら随分勇気ある若者だなあと思ってね。あそこの存在は皆が知ってるけど、決して言及はしないというのが暗黙の了解だったじゃないか。それをまさか、シェリアの前で堂々と口にする人物がいるとはね」
「イーニアスは悪くないよ」
「……ご無礼は、承知の上でした。どんな処罰も受ける覚悟です」
 重々しい口調で、イーニアスは告げた。そんな彼の台詞を聞きながら、ライナスは目線を落とす。
「……シェリアを連れて行ったのかい、地下牢に」
「――なぜ、そんなことを聞くの?」
 ライナスの声音がイーニアスを責めているものと感じ取ったのか、シェリアは再び彼を庇いに出た。
「あのような穢れた場所に、聖女が足を踏み入れるべきではない。それくらいは分かるだろう」
「あんなにも穢れた場所を作り出したのが、その聖女自身だっていうのに?」
 ライナスを睨みつけるようにして、シェリアはきっぱり言い切った。
 ――これはまた、予想以上に強い一面を持っていたものだ。ライナスは心の中で密かに感心する。今朝の印象では、頼りないが従順で素直な少女という感じで、それが彼の気に入ったというのに。しかし今の強気な彼女も、何故だかやはり好ましく思えた。なかなかに面白い少女だ。彼女のワンピースの裾が塵と埃にまみれ薄汚れているのを見れば、件の地下牢に行ったのは間違いなかろう。しかしそれを追及するのはやめてあげようか、という気になった。あの現場を見てなおこのように気丈に振舞っているというなら、尚更彼の興味を引いた。
「まあ何にせよ、自由奔放な我らが聖女様の行いにケチをつけるつもりはないよ」
「もうつけてるじゃないですかっ」
「とにかく、今晩はすでに夜も遅い。ホリジェイルの件は必ず君の満足いくよう取り計らうから、部屋に戻ってもう眠りなさい。イーニアス君、君もだよ。このわがまま聖女に付き合って随分神経を削ったことだろう。明日の仕事もあるのだから、そろそろ身体を休めねば差し支える」
 やんわりと場のお開きを宣言するが、それでもシェリアは渋ったような表情を浮かべた。
「……でも私、閉じ込められてた皆が無事解放されたのを確認しないと」
「私が責任を持つと言ったじゃないか。そんなに私が信じられない?」
 あまり信じられない、という胡乱げな瞳でシェリアはライナスを見上げた。一体この一日で自分に対する評価がどのように定まっていったのか、実に気になるところである。
「ほらほら、彼らだってやっと解放されたところに君が待ち構えていたら、恐怖のあまり失神してしまうよ。とにかく君は部屋に戻ること。いいね」
 そのように言われれば、シェリアも強く反発できないのだろう。口をつぐんで、何か言いたげだったその言葉を飲み込んだ。彼女の背中を押してやると、素直にドアまで歩いてゆく。
「シェリアスティーナ様、お部屋までお送りします」
 イーニアスももう退出するべきだと判断したらしく、礼儀正しく頭を下げてさっとシェリアの手を取った。その優雅な動きを見てやっとライナスは彼のことを思い出す。彼と、あの赤毛の青年のことを。
 二人は共に将来有望な貴族の若者たちだったはずだ。それが、シェリアスティーナの戯れによって惨たらしくもどん底にまで突き落とされた。赤毛の青年は今の今まで例の牢屋に閉じ込められ生死を彷徨っていたであろうし、このイーニアスという青年とて、準騎士の地位も許嫁も開かれた未来も失い、そして危うく唯一無二の親友さえも永遠に失うところだった。ならば目の前にいるこの娘こそ、憎んでも憎みきれぬ憎悪の対象のはずではないか。その割に随分と落ち着いて騎士道精神を発揮しているのだな、とライナスは不思議な気持ちで彼の様子をうかがった。
 その碧色の瞳には、憎しみの色などつゆと見えぬ。代わりに、愛すべき主君を見つめるような、情熱的な、それでいて澄んだ色が浮かんでいる。おや、とライナスは片眉を上げた。
 全く本当に、この一日で何が起こったのか。自分の与り知らぬところで、随分と興味深い展開があったようである。シェリアをずっと一人放っておいたのは間違いだったかもしれないと、彼にしては珍しく、己の行動を軽く後悔したのだった。自分だけが蚊帳の外なのは面白くない。
「――シェリア」
 ライナスは、イーニアスに連れられ部屋を出て行こうとする聖女に声をかけた。なに? という目で己を見上げた彼女の額に、素早く口付けを落とす。途端に彼女の顔は真っ赤に染まった。純朴な娘そのままに慌てふためく気高き聖女、シェリアスティーナの姿など、まさかこの目で拝める日が来ようとは。面白くなってライナスはクスクスと笑った。
「お休み、のキスだよ。どうやらある種の効果てきめんのようだね。――そうだ、いいことを思いついた。明日から君が私に敬語を使うごとに一回、今のようにキスしよう。どうかな、一日に何回できるかな?」
「ななな、何をわけのわからないことをっ」
 キーキーとわめくシェリアの横で、イーニアスが微妙な表情を浮かべていた。こちらもやはり面白い、とライナスは腹の中でほくそ笑む。
「おや、イーニアス君、なんだか物言いたげな不満そうな顔をしているね。ああそうか、君にもお休みのキスをしてあげなければね?」
 何を言い出すんだ、と言わんばかりの驚きの表情を浮かべ、イーニアスは固まったが。
「……結構です」
 しばらくの沈黙の後、苦々しい表情で、それだけ呟いた。