57.

 アシュートは、視線をちらりとシェリアの手元に落とした。
 シェリアの右手は未だネイサンに捕らわれたままだ。はっとシェリアが気づくのと同時にネイサンの方から手を放された。
「なにかあったのですか?」
 抑揚のない声で、アシュートがそう尋ねる。
「少し、アシュートと話がしたいの。いいかな?」
 シェリアは素直にそう告げた。アシュートは強張らせていた表情をわずかに和らげ小さく頷く。
「ネイサンは先に帰っててもらえる? アシュートと一緒だから安心して」
「分かりました。くれぐれも無理をなさらず」
 するり、風の流れに乗るようにネイサンは姿を消した。去っていくネイサンの背中をアシュートと二人、無言で見送る。そのまましばらくぼうっとしていたシェリアだったが、アシュートがネイサンではなく自分を見ていたことに気がついて、慌てて表情を引き締めた。
「中庭で、少し掛けましょうか」
「ん……」
 ここからも見える中庭に視線を飛ばす。他に人の気配はないが、四方を回廊に囲まれているためいつ誰が近づいてきてもおかしくない。
「できれば、別の場所がいいな。あまり人に聞かれたくない話だから」
 わかりました、とアシュートは頷き、わずかに逡巡する様子を見せた。
「それなら私の執務室はどうでしょう。人払いをしておけば、誰も入ってきません」
「そうだね。じゃあ、お邪魔します」
 アシュートがゆったりとした動きで踵(きびす)を返す。歩き出したその背中を見つめながら、シェリアも後に続いた。
 こうしてアシュートの後ろを歩くことができるのは、一体いつまでなのだろう。どんなに長く見積もってもあと半年程度。もしかしたらもう一月と残されていないのかもしれない。
 ライナスが言うように、もしシェリアスティーナとしてこの先も生きていくことができるのなら、アシュートはそれを受け入れてくれるだろうか。そしてずっとずっと、お互いが年老いるまで、こうして側にいることを許してくれるだろうか。
(でも――、もしアシュートが許してくれても、私自身はそれを許せるの?)
 これは私の人生じゃない。
 シェリアは改めてその事実を噛みしめた。このままずっと過ごせたら、などと、一番考えてはならないことだ。それは戒めとして、もう何度も自分に言い聞かせてきたことではないか。
 もし、例えば。そんな考えが幾度となく頭をよぎる自分を叱咤する。考えても仕方のないことで悩んだりせず、今目の前にある問題を真っ直ぐ見すえなければならないのに。
 それでもシェリアの心は揺らいでしまうのだった。砂で建てた塔のように、脆く危うい自分の心。繰り返し打ち寄せる波に晒されるうちに、あっけなく崩れ落ちてしまうのではないだろうか。
 シェリアは右手をアシュートの背中にそっと伸ばした。
 このまま服を掴んで、驚き振り返るアシュートにしがみついて、もうなにも考えたくない、ただ側にいさせてと泣き喚いてしまえば、どうなるだろう?
(また、『もし』の話)
 シェリアの手は空を切っただけで、そのまま降ろされた。――できない。しては、いけない。
 その時不意にアシュートが振り返ったので、シェリアは思わず身をすくめた。
「大丈夫ですか?」
「う、うん」
 一瞬、身勝手な思いに捕らわれた自分の迷いを見透かされたかと思った。とっさに頭の働かぬまま頷いたシェリアに、アシュートは心配そうな眼差しを向ける。
「並んで歩きましょう。あなたの姿が見えないと、不安になる」
 ごく自然に背中へ大きな手が添えられた。シェリアの心臓がどきりと波打つ。
「そんなに頼りないかな、私」
 緊張を誤魔化そうと笑って見せたシェリアに、しかしアシュートは笑みを返さない。
「顔色がとても悪い。今にも倒れてしまいそうです」
 そんなことはないと答えようとした矢先、足元の段差に蹴つまずいて転びそうになってしまった。すかさず両手を伸ばしたアシュートに支えられ、シェリアはどうにか持ちこたえる。
「ご、ごめんなさい」
 恥ずかしさのあまり落とした顔を上げられないシェリアは、口の中で小さく謝った。本当に自分は、情けない。見せつけるように足をもつれさせては相手を心配させるだけに決まっているではないか。せめてもうこれ以上は失態を晒すまいと、シェリアは歩くことだけに専念することにした。
 まだ離れることのないアシュートの両手に支えられながら、この手を失うことを恐れてしまってはならないと強く自分に言い聞かせるシェリアなのだった。

 アシュートの執務室は、相変わらずさっぱりとしていて無駄なものがなにもない。
 ソファに腰かけるとすぐに侍女がお茶を持ってきてくれた。アシュートが侍女にしばらく誰も立ち入らぬよう伝えている横で、そっとグラスに口をつける。冷たくて、おいしい。また幾分か気持ちが和らいだ。これなら落ち着いてアシュートと話ができそうだ。
「それで、早速ですが」
 向かいに腰かけたアシュートが遠慮がちに口を開く。シェリアは小さく頷いて、グラスを置いた。
「あのね。さっき、ライナスと話をしていて」
 軽く息を吸い込む。
「シェリアスティーナ――かつての私が豹変してしまった理由、聞いたんだ」
 アシュートがわずかに目を見開いた。
「ライナス殿が、話したのですか」
「うん。私には知る権利があるからって。それはアシュートも同じだと思う。だから話をしたいと思ったの。それに私、話を聞いて色々と混乱しちゃって、どうすればいいか分からなくて」
「……」
 アシュートは黙り込んだ。いや、言葉を失っているのかもしれない。思いもがけず真実と向き合うことになり、すぐには心の準備ができないのだろう。
「……伺いましょう」
 それでもアシュートは毅然とした声でそう答えた。
 シェリアはもう一度しっかり頷き、改めて口を開く。
「それほど複雑な話じゃなかった。だからこそ残酷なことだって、ライナスは言ってたけど……」
 本当にその通りだと、シェリアは思う。
「聖女には、それぞれ特別な能力が授けられているでしょう? それは私も例外じゃなかった。私にも、神に与えられた能力はあったんだ」
 口に出すのもおぞましい能力が――。
「ええ、その通りです。ただ、シェリアスティーナ様の能力に関してはこれまであまり言及されていませんでした。私もシェリアスティーナ様の能力についてはなにも……」
「ほとんどの人は知らなかったと思う。かつての私自身も、王宮に来た頃は気づいてなかったみたいだし。結局知っているのは、私を除けばライナスくらいじゃないかな。あとは、王様とかその側近の人とかは、知らされてたかもしれないけど」
「その能力が、シェリアスティーナ様が変わってしまったことに関係しているのですか」
 アシュートが組んでいた両手に、力が入ったように見えた。
「うん。きっとそれが全てだよ。聖女シェリアスティーナの能力は――心通わせた者の『死』の力を増長させること、だから」
 一気に言い切ってしまってから、シェリアは耐えきれず目を伏せた。アシュートの顔をまともに見ることができない。ずっとずっと追いかけ続けた聖女の真実を知らされた今、彼はどんな表情をしているだろう。つい先ほどの自分のように、告げられた事実を上手く咀嚼できずに呆然としているだろうか。そして怒りとも悲しみともつかない、なんとも言えぬ感情が沸き起こってくるのに戸惑っているだろうか。
「……心通わせた者の『死』の力、を。では、突然増えた不審死はその能力に起因するものだったのですね?」
 思いのほか落ち着いたアシュートの声に、シェリアは恐る恐る顔を上げた。落ち着いた声とは裏腹に、その表情には複雑な色が浮かんでいる。アシュートの両手はますます強く握り締められていた。
「そう。突然王宮に連れられて、不安で一杯だった私が心を許した人たち……。そんな人たちばかりが次々と死んでいって、やっと私は自分の能力を自覚したらしいんだ。原因が自分にあることが分かって、私は随分と荒れたんだって。それからは人を遠ざけるようになったんだけど、それもどんどんエスカレートしていって」
 その後こそは口にすることができなかった。静かに狂気をはらんでいったシェリアスティーナが手を下した無数の人々の中には、アシュートや彼の妹ミリファーレも含まれているのだ。
 ライナスは、シェリアスティーナが人を傷つけ始めたことに意味などないと言っていた。だが本当にそうなのだろうか。そこに理由を見出すことはできないだろうか。例えば、シェリアスティーナは――残酷な事実から少しでも遠ざかりたかったのだとしたら。
 自らが心を許し、また自らに心を許してくれた大切な人々を、自分の能力で殺めてしまった。シェリアスティーナにとっては逃れようのないその事実に、彼女は追われ続けていたのではないか。懸命に目を逸らそうとしても、どうしても逸らすことができない。白い紙にぽとりと落ちた黒いインクのように、二度と消えることのないどす黒い染みが、いっそ鮮やかなほど目に飛び込んできて。その黒い眩しさに耐え切れなくなって、紙そのものを真っ黒に染めてしまおうとシェリアスティーナが考えたのだとしたら――。
「私がシェリアスティーナ様に問いつめたことは、まさしく彼女にとっての鬼門だったわけですね」
 同じようなことを考えていたのだろう、アシュートが静かにそう告げた。
「絶対に誰にも触れられたくない問題だったに違いありません。だから彼女はあんなにも残虐な仕打ちができたし、あんなにも取り乱してしまったのでしょう」
 当時のことを思い出しているのか、アシュートの顔色が優れない。
 まだシェリアの知らない、二人の確執。
「それでライナス殿は、なんと?」
「ライナスは」
 シェリアは少しうつむき、その拍子に顔にかかった髪を右手でかき上げた。それからぞっと身を震わせる。この髪もこの腕も、私の本当の身体じゃないんだ。やっぱり絶対に、自分のものにはならないんだ。しちゃ駄目なんだ。
「ライナスは、もうずっとこのままでいた方がいいんじゃないかって」
 声がかすれた。その声すらも自分自身の声ではない。
「というと?」
「なにも思い出せないままの私で、つまり、今の私自身のまま、これからもやっていくのがみんなのためにもなるんじゃないかって」
「ライナス殿が、そんなことを」
「でも私、それはできないの! だってこれは、かつてのシェリアスティーナの人生だから。昔の記憶をなにも持たない私がそれを引き継ぐことはできない。いつか戻ってくるシェリアスティーナのために、私は、私は今……」
 自分はなにを言っているのだろう。これ以上のことをアシュートにぶつけてはいけない。落ち着いて話さなくては。だが、そう思うほどに気持ちばかりが焦っていく。
「でもそれが本当にシェリアスティーナのためになるのかな。分からなくなってきちゃったの。ライナスは、わ、私が記憶を取り戻してもきっと辛いだけだって言う。今は治まってる聖女の『能力』にまた苦しむことになるかもしれないし、例え力がなくなっていたとしても、これまで無実の人を手にかけてきた罪悪感から逃れることはできないだろうって。じゃあ私はなんのために、ここでこうしているんだろう。シェリアスティーナが戻ってきた後で、私は私のしてきたことになんの責任も取れない。なのに今、好き放題やっていいのかな。良かれと思って頑張ってきたけど、それが誰のためになるのか、もう分からないよ」
 言葉と共に涙まで溢れ出しそうになって、どうにかこらえようと両手で口元を覆った。
「これまでも同じようなこと何度も何度も考えて、悩んでた。でも答えなんて出ないまま、とにかく自分自身を信じてここまで来た。だけどね、私は絶対に、シェリアスティーナの人生を乗っ取りたいと思ってたわけじゃない。誰かにそれを認めてもらいたいわけでもない。だからライナスが心からそんなことを望んでるなんて思いたくないの……」
「シェリアスティーナ様、落ち着いてください」
 アシュートが立ち上がり、シェリアの隣に腰掛けた。ゆっくりと背中をさすってくれるが、シェリアは固まったまま動けない。少しでも動けば、どうにか押し付けている感情がますます暴れだしてしまいそうだった。
「シェリアスティーナ様」
 アシュートの呼びかけが耳に痛い。その名前で呼ばないで。私の名前は、ユーナ。シェリアスティーナじゃない。
 そんなふうに心の中で叫んでおきながら、シェリアスティーナに成り代わりたいと思ってなどいないと、本当に言い切れるのだろうか。
 分からない、分からない。
 口元を押さえていた両手に顔を埋めると、余計に頭の中がめちゃくちゃになっていく。
 もうなにも、分からない。
 この両手からどろりと溶けて、全てが消えてしまえばいいのに。そして一から新しく作り直されればいいのに。シェリアスティーナのしたことも、ユーナである自分のしたことも、全部なくなってしまえばいい。神様ならそれができるはずじゃないの――?
「あなたは本当に、苦しんでばかりだ」
 背中に添えられていたアシュートの手が、強くシェリアを引き寄せた。そのままその両腕に包まれる。突然の温かさに身構えたシェリアは、間を置いてやっと自分が抱きしめられていることに気がついた。
(――!)
 反射的に離れようと身をよじるがびくともしない。どころかますます強く抱き寄せられ、耳元にアシュートの息遣いが聞こえてくるほどだった。
 泥水のような濁った混乱に支配されていたシェリアは、頭の中がぱっとはじけるのを感じた。次いで、それまでとは全く種類の違う混乱が渦を巻き始める。
「あ、あの、アシュート」
 どうしようもなく声が上ずってしまう。その呼びかけで困惑は十分に伝わったはずなのに、アシュートはシェリアを抱きしめる両手により力を入れた。
「シェリアスティーナ様がこれまでのことを『思い出した』時、今のあなたは消えてしまうというのですね」
 シェリアは小さく息を呑んだ。
「あなたは、この世からいなくなる。かつてのシェリアスティーナ様の記憶と一つになるのではない。言葉どおり、消えてしまうと。あなたはそれを、分かっているのですね」
 アシュートの溜め息にも似た声がシェリアの耳に降りかかる。
「……ずっと確かめなければと思いながら、どうしても尋ねることができませんでした。――あなたは記憶をなくしたシェリアスティーナ様ではない。本当は、全く別の人格を持った存在なのでしょう。本来のシェリアスティーナ様とは決して共存できない、一時だけ姿を現した別の存在」
 アシュートの腕の力がわずかに緩んだ。シェリアは両手を支えにして、アシュートの胸に埋めていた上体をゆっくりと起こす。伏せていた瞳を上げると、アシュートの真剣な眼差しとぶつかった。