58.
その通りだと、頷くことはできない。
言い当てられてもなお、認めることはできないと思った。
しかしアシュートに真剣な眼差しで顔を覗き込まれると、もうこれ以上は誤魔化せないのではないかという思いも同時に頭をもたげてくる。
答えられないままシェリアはアシュートをじっと見返した。
「あなたは一体、何者なのですか?」
シェリアは強く唇を噛む。
「……言えない」
アシュートの表情が落胆したものに変わった。鋭い刃物でその身を切りつけられたかのように、苦しげに眉を寄せる。
そんなアシュートの様子を見て、シェリアもまた苦しかった。しかしライナスにそうしたように、ユーナの名を名乗ることはできない。今それをしてしまったら本当に後戻りできなくなってしまいそうだった。きっとユーナとしての自分を受け入れてくれることを期待してしまう。相手がアシュートだからこそ、なおさらその思いは強い。それがシェリアには怖くてたまらないのだ。
「どうしても、言えませんか」
「ごめんなさい」
耐え切れずシェリアはうつむいた。しかしアシュートは許さず、顎に指をかけて再び上を向かせてしまう。
「本当にあなたはいなくなってしまうのですか。なにか方法はないのですか」
「ない。どうしようもないの。誰にもどうにもできない」
ゆるゆると首を振って、シェリアはアシュートの指から逃れた。そのまま身体を引いてアシュートから距離を置こうと試みたが、腰に回された左手は逆に強くシェリアを引き寄せる。
「私もライナス殿と同じ気持ちです。あなたが消えてしまうくらいなら、いっそずっとこのままでいて欲しい。私は、あなたの懸命な姿を見てきたからこそ、自分の中にある憎しみを沈めることができたのです。なのに、あなたがいなくなってしまったら」
「お願い、やめて」
シェリアは遮って、たまらずアシュートの肩に顔を埋めた。その拍子にもう一度強く抱きしめられ、それを心地よく思ってしまう自分に嫌悪する。
アシュートはいつも冷静沈着の人だった。とかくシェリアのことに関しては、冷静すぎるほどに冷静だった。シェリアスティーナに対する憎悪の念に押しつぶされぬようにと、努めて己を律していたのだろう。だからなのか、いつでも一歩身を引いたところで物事を眺めている印象があった。
今回も、アシュートならば落ち着いた答えを返してくれると思っていた。シェリアの行いは間違っていないだとか、シェリアは思うままに進めばいいだとか、そんな都合のいい、自分を正当化してくれる答えたちを欲していたのだ。
実際はそんなものとは程遠いアシュートの言葉や態度を受けて、自分は今なにを思っているか。
混乱と恐怖、そして、――喜びなのではないのか?
アシュートがなりふり構わず、シェリアスティーナではないユーナ自身を必要としていると告げてくれたこと。それがまるで嬉しくないといったら、嘘だ。むしろ心の底ではずっと望んでいた言葉に違いなかった。気のせいでも気の迷いでもなく、今自分は喜びを感じている。
それがたまらなく嫌だった。自分で自分が許せないと、強く思う。
(私は本当にこの身体をシェリアスティーナに帰す覚悟ができてるの?)
そう問いかけても明確な答えは浮かんでこなかった。当然だ、この状況下で答えなど出せるはずがない。温かいアシュートの腕の中でそんなことを自問するなど、あまりに馬鹿げた話だった。
(……離れなくちゃ)
麻痺しかけた頭でどうにかそれだけを考えて、シェリアはわずかに身をよじる。やっとアシュートはその両手を解放してくれた。近すぎず遠すぎずの距離を取り戻し、シェリアは密かにほっと息をつく。
「ごめんね。私自身、色々と考えがまとまらなくて」
アシュートは小さく首を振った。
「……シェリアスティーナ様」
「ん?」
「きっとあなたは、私に背中を押させたかったのでしょう。いなくなった後のことを気に病んだりせず、ご自身の信じる道を進めばいいと、そう私は言うべきだったのかもしれません。ですが、それはあまりに酷な話です。今の私にはとても言えない」
アシュートの疲れた声は、わずかに掠れてさえいる。
「私はもうあなたを憎まないと言いました。しかしだからといって、過去の件を完全に清算できたというわけではないのです。あなたと共にいるとその傷があまり痛まない。醜く歪んだ傷跡にもどうにか目を向けることができる。……それだけのことなのです」
ですから、とアシュートは躊躇いながら先を続けた。
「あなたがいなくなってしまえば、私はどうすればいいのか分からなくなる。以前のシェリアスティーナ様が戻ってきたときにそれを受け入れられるのかどうか。女々しい話ですが、私は未だ過去に縛られているのです」
シェリアは黙ってアシュートの横顔を見つめた。今はこちらを向いていない端整な横顔は、まっすぐ窓に向けられている。差し込む光がアシュートの顔を白く浮き立たせていた。窓の向こうに広がっているのは、未来なのか、過去なのか。
「……かつて私とシェリアスティーナ様の間になにがあったのか、聞いていただけますか」
白い顔のままアシュートは言った。
以前も一度、語ろうとしてくれた。でもその時はまだ、言葉にできるほど彼の中で気持ちが落ち着いていなかった。震えて俯いたあのときのアシュートを、シェリアは今もはっきりと覚えている。
「でも……、平気?」
そっと尋ねると、アシュートは小さく頷いた。
アシュートがシェリアスティーナのことを特段気にかけ始めたのは、彼女が城に上がった数年後、関わった全ての使用人を一斉解雇した頃だったという。
それまでももちろんシェリアスティーナに無関心だったわけではなかった。だが、なかなか周囲に溶け込めないシェリアスティーナを心配こそすれど、実際どう接すればいいのか分からないまま月日が過ぎてしまったのだ。向こうにしてみれば、アシュートは突然現れた見知らぬ貴族であり婚約者だ。照れや緊張が相まって、取るべき距離感を上手くつかめずにいたに違いない。
そのように、アシュートとはいつまでも他人行儀な感が否めなかったシェリアスティーナだが、他の者に対しては少しずつ距離を縮め始めた。このままゆっくりと彼女は王宮に馴染んでいくだろうとアシュートは考えたし、それは他の者にしても同じだった。
しかし――。
突然シェリアスティーナは豹変してしまう。その理由は誰にも分からなかった。ただ理不尽に彼女は残酷な振る舞いをし始めたのだ。周りの者たちの説得にも全く耳を貸そうとしない。どころか、聖女に楯突く者は死刑に処すると、一切の迷いも見せずそう言い切ってしまう始末だ。それがただの脅しではないと明らかになると、彼女を諌める者は軒並み減った。
シェリアスティーナを止められるのは自分しかいない。
アシュートが強い決意を以ってそう考えるのに、さほど時間はかからなかった。このままシェリアスティーナの好き勝手にさせるわけにはいかない。ならば何故彼女が変わってしまったのか、その理由を知る必要がある。アシュートは王宮に上がった直後からのシェリアスティーナの情報を調べ始めた。なにか、なにか決定的な出来事があったはずなのだ。誰にも知られていないだけで、事実は必ずこの王宮内に眠っているはずなのだ――。
調べ物のほとんどは徒労に終わってしまったが、一つ気になる情報を得ることができた。それが慶弔記録簿だ。アシュートは何の気なしに記録簿をめくっていた。疲れが溜まっていたから、内容のほとんどは頭に入っていなかったと思う。しかしそれが却ってよかったのか、不意に頭にひらめくものがあったのだ。
シェリアスティーナが王宮に上がってから、不慮の死を遂げた者が増えている。
――そうだ、そうだった。
アシュートは目の醒める思いがした。なぜ忘れていたのか。当時もそのことについては密かに噂されていたではないか。
一度気がついてしまうと、後はあっという間だった。シェリアスティーナが豹変する直前までに亡くなった者たちの経歴を調べ上げれば、一人を除いた全員がシェリアスティーナに仕えた経歴の持ち主であることが分かった。更に周囲の者たちに聞き込みをした結果、人見知りの激しいシェリアスティーナが特に気を許していた者たちばかりが死亡しているということまで明らかになったのである。
これがただの偶然なのか? そんなはずがない。
シェリアスティーナが別人のようになってしまった原因と、なにかしら関係がある。アシュートは直感を確信に変えた。
そしてついにアシュートは、シェリアスティーナと向き合う覚悟を決めたのだ。
これまで彼女に意見した者は死刑、よくて王都追放だ。しかし彼女の婚約者であるアシュートには、さすがのシェリアスティーナもあまり強くは出れないだろう。そう思って、アシュートは単身シェリアスティーナの元を訪れたのである。……その考えがあまりにも浅はかだったと気がついたのは、なにもかもが終わってしまってからではあったが……。
『つまりなにが言いたいの?』
話し始めたアシュートを遮って、シェリアスティーナは冷えた瞳を彼に向けた。
『そんな古い記録を引っ張り出して、あなたは私をどうしたいの』
アシュートは久々に面と向き合った婚約者が纏(まと)う冷えた空気に、内心ひどく慄(おのの)いた。初めて顔を合わせたときとはなにもかもが違う。今初めてこの娘と顔を合わせたような気さえする。
『結局あなたは、私が邪魔なのね』
言葉が出てこずに、アシュートはただ頭(かぶり)を振った。その様子を見てシェリアスティーナは醒めた表情でせせら笑う。
『イルフィス、ソニア、ポール……懐かしい名前ばかりだわ。どうして皆死んでしまったのかしら。ねえアシュート様、あなたはその理由を知っているの?』
『私には分かりません。ですが、あなたは知っているはずだ』
それを話して欲しい。一人で抱え込まずに、全てを打ち明けて欲しい――。
だがアシュートの言葉はシェリアスティーナに届かなかった。一瞬、同情とも取れるような儚げな憂いを瞳に浮かべた後、シェリアスティーナは再び口を開いたのだ。
『分からないなんて、嘘。あなたは思っているんでしょう、皆私が殺したのだと。それを私に確かめに来たんだわ。違う?』
皆私が殺した。その言葉を聞いて、アシュートはぞくりと背中に冷たいものが走るのを感じた。
『ねえ、アシュート様。もし私がここで、あなたが挙げた使用人たちを殺してなどいないと言ったら、信じてくれるというの? 彼らの死は私の意図するところじゃないと言ったら、なんて答えてくれるのかしら。あなたはどちらを信じるの。私か、それともあなた自身か――』
アシュートは答えられない。シェリアスティーナの狂気は見る間に膨らんでいった。それを止めようにも、アシュートにはその術が見つからない。今のシェリアスティーナはまともに話ができる状態ではないとようやく悟ったが、もはや遅かった。
『でも本当にひどいわ! 私が殺したと言うのなら証拠を見せてちょうだいよ。だって私は殺していない、死んで欲しくなどなかったのよ。なのに皆、私の前から消えていったの!』
『シェリアスティーナ様、どうか落ち着いてください』
『落ち着いていられると思う? あなたは聖女である私に謂れのない罪をなすりつけようとしたのよ。私に人殺しの烙印を押そうとした。私は無実なのに! 第一神聖騎士といえど、ただの侮辱罪では済まされないわ。あなたはたった今、神をも敵に回したのよ!』
『私はあなたが殺したなどと言っていません! ただ、その時なにがあったのか知りたいだけで』
『黙って! あなたの話なんかもう聞きたくもないわ!』
アシュートを鋭く睨みすえたシェリアスティーナは、泣いていた。怒りに満ち満ちたその瞳から、涙だけが儚く零れ落ちるのだった。
「そして私はシェリアスティーナ様の裁きを受けることになりました」
アシュートはシェリアの方を見ようとはせず、ひたすら目の前のテーブルを睨みつけていた。シェリアはアシュートのその横顔を眺めながら、ただ黙って先を促す。
「しかしさすがの国王も、第一神聖騎士である私を易々と失脚させることはできなかった。シェリアスティーナ様にあらぬ疑いをかけた私を厳重に注意しながらも、私自身に特段の罰が下ることのないようご配慮くださったのです」
それでもシェリアスティーナは納得しなかったという。
「大きな罰を受けることのなかった私を前に、シェリアスティーナ様は自らの命を絶つことをほのめかし騒がれました。婚約者である私に身に覚えのない非難を浴びせられ、とても耐えられない、と。そして国ぐるみでそんな私を庇おうとするのなら、もう自分はいなくなったほうがいいと仰って」
シェリアスティーナは鋭い刃物を首筋に当てて喚きたてたのだ。ちょうど、聖印のある辺りだった。そんな彼女を取り囲んだ者たちは、改めて彼女が聖女であることの意味を思い出す。――彼女が死ねば、そのまま何千何万という人々の命が危険に晒される。聖女が不在になることだけは、他のどんな犠牲を払ってでも絶対に避けなければならない――。
結局、アシュートに今一度罰が与えられることとなった。
周りの者たちは、アシュートとシェリアスティーナを天秤にかけたのだ。そのときどちらがより重きを得るのかは、火を見るより明らかだった。
アシュートもその決断を下した者たちを恨んではいない。自分自身でも同じ結論に辿り着いたのだから、恨みようがなかった。聖女シェリアスティーナを失うことと比べれば、自分の存在など塵にも等しいはずなのだ。
だがシェリアスティーナは、アシュートの失脚も、その死も望みはしなかった。シェリアスティーナはもっと別の方法でアシュートを罰することにしたのである。彼女は突然、アシュートの名の下に緊急召集をかけたのだった。アシュートの血縁者のみを、特別の事情により至急王宮に集めるとの声明を発表したのだ。
召集期限はほんの数刻の間。
『この短い時間で、どれだけあなたの血縁者が集まるかしらね? 集まった者たちは、国やあなたによく忠誠を誓っている者たちということになるのでしょうね』
初めはアシュートにもその意味がわからなかった。アシュートの血縁者ばかりを集めて、それでなにをしようというのだろう……。
一人、また一人とアシュートの見知った顔がやって来た。皆突然の召集に戸惑った様子だ。シェリアスティーナの姿を見て青ざめる者もいたが、だからとてもはや逃げ帰ることも許されない。
『皆さん、ご苦労様。でもまだ時間があるわ。もう少し待っていてね。それから大切なお話がありますから』
にっこり微笑むシェリアスティーナの美しい横顔を見ていると、アシュートにもだんだんとその意図が飲み込めてきた。シェリアスティーナは、アシュートを一番苦しませる方法を正確に見抜いている。自分の身が切り裂かれるよりもなお辛い、一番の罰し方を――。
『お兄様、ただ今参りました』
最後に現れたのは、妹のミリファーレだった。アシュートはその小さな姿を目にした瞬間、呼吸の仕方を忘れてしまった。何故来たんだと怒鳴りつけたい衝動に駆られた。だがあまりに大きな絶望の前に、その気力さえ沸き起こってこない。
『さあ、皆様。よく集まってくださいました』
シェリアスティーナは狂気を孕んだ笑顔を浮かべた。
『皆様には、わが婚約者アシュート様の罪を償っていただくべく、お集まりいただいたのです』
ざわり、と場の空気が揺れた。集まったのは全部で十人少々。ほとんどが王宮で重役についている男たち、中にその夫人も数人含まれている。そしてただ一人、まだ少女と呼べるあどけない妹ミリファーレ。彼らは互いに顔を見合わせた。そして最後には縋るようにアシュートに視線を向けるのだ。一体これはどういうことか、と。
『アシュート様、たった一人だけ選んでもいいわ』
シェリアスティーナは思わず見惚れるほどの笑顔でアシュートに寄り添い、その右手を優しく握った。
『あなたが選んだ一人を救いましょう。他の者は、全員死刑よ』