59.

 分かってはいたが、とっさには頭が働かなかった。
 今、なにを言われたのか。頭が理解することを拒んだ。アシュートはその場にただ立ち尽くした。
 集められた者たちも一様に同じ反応を返した。――なにも反応できない、という反応を。
 煌びやかだがごく小さなその部屋で、空気は完全に凍りついた。時が止まり、動く者は誰もいなかった。ただただ呆然と、にこやかに微笑む女神のような娘を見つめるばかりだ。
『私、アシュート様ご自身を責めることはもう止めるわ。あなたの言葉に私は死んでしまいそうなほど傷ついたけれど、あなたは良かれと思って言ってくれたのよね? それなら、私だってあなたの未来の妻ですもの、いつまでも根に持つことは止めにします。ただ、けじめはつけなければならないわ。そうでないと、お互いずっと今度のことを引きずってしまうでしょう。だから』
 シェリアスティーナは、すっと瞳を細め、集まった面々を見渡した。
『この方たちに全てを流してもらいましょう』
『――馬鹿な!』
 やっと呪縛の解けたアシュートは、腹の底から叫び声を上げた。そんな馬鹿げたやり方があるものか。なんの罪もない、シェリアスティーナとは爪の先ほども接点のない者たちばかりではないか。それを、それを――。
『何日も寝ずに考えた解決策なのよ。それを拒絶したりはしないでね。前にあなたを罰しようとしたときは、国王様や周りの人たちに止められてしまったから。今度はちゃんと事前に相談もしたの。それで全てが丸く収まるならいいだろうって、偉い方々も仰ってくださったわ』
 一体誰だ、この狂人にそんな許可を与えた愚か者は――。アシュートは頭から火が出るほどに怒りを覚えたが、その怒りを爆発させることはできなかった。シェリアスティーナの命が絶対。それは自分自身が導き出した結論でもあったのだから。
『……シェリアスティーナ様。この者たちは私たちとはなんの関係もありません。シェリアスティーナ様が私を許せないとお考えなら、どうぞこの私自身に罰をお与えください』
 お願いします、とアシュートはその場に跪いた。屈みこむ直前に、恐怖で涙を浮かべる妹の姿が視界に入った。
『なにを言うの。だめよ、あなたを傷つけたりはしないわ。国王様に諭されて、私自身も思いなおしたんだもの。婚約者のあなたを失うくらいなら、私もその後を追った方がましだって』
 もはやどう足掻こうと無駄だった。アシュートたちは見捨てられたのだ。この小部屋に閉じ込められて、見捨てられた。シェリアスティーナの狂った欲望を沈めるための生贄に選ばれたのだ。
『……』
 アシュートはふらりと立ち上がり、集まった血縁者たちを見渡した。
 父母は早くに亡くなっている。そんなアシュートや妹ミリファーレを支えてくれた頼れる伯父の姿もあった。政治のことでは意見が合わないが、いつも真っ直ぐで融通の利かぬ気性ばかりはそっくりだと思える従兄の姿も見つけられた。妹が母のように慕っていた夫人の顔もある。皆青ざめた顔をしていたが、うろたえ取り乱す者はいなかった。
『アシュート様のご意向も取り入れるつもりよ。だから一人、選んでちょうだい。その者には手出しをせずに帰してあげるわ』
 選べるはずがない。それこそ余計に残酷だ。たった一人を選ぶということは、アシュートの意思でその他の者を見捨てるということに他ならない。それくらいなら全員死刑にして、その上で自分自身も殺してくれた方がいくらもましだ。
 ……だが、シェリアスティーナはそこまで分かっているのだろう。
『アシュート殿。シェリアスティーナ様の気が変わられないうちに、早く選びなさい』
 母方の伯父が、気丈にもそう言った。もはや覚悟は決めている、とその目が語っていた。
『……そ、そうだ。選ぶべき人がいるだろう』
 父方の叔父が夫人を引き寄せ微笑みかけた。夫人も青白い顔で、しかし笑みを浮かべてしっかり頷く。
『だめだ、だめだ! 誰か一人など、選べるはずがない。せめて――せめて半分でも!』
 残酷な選択をしなければならないのなら、一人でも多くを救いたかった。だが。
『いいえ、いけません。誰か一人だけよ』
 底冷えのする声でシェリアスティーナはきっぱりと告げた。
『さあ、どなたにするの。この中からは選べない? それならもう一度招集をかけて、今度はもっと長く待ちましょうか。そしてもっとたくさん集めれば、その中からなら、あなたも一人を選ぶことができる?』
 アシュートは殺意すら込めた眼差しでシェリアスティーナを睨みつけた。しかしシェリアスティーナはそよ風を受けるように瞳を細め微笑むばかりだ。
『アシュート殿。早くするんだ、皆分かっている!』
『そうだ、君は早くに両親を亡くした。もうこれ以上失えないもの、分かるだろう』
『選ぶべきは誰か決まっているだろ』
 アシュートはシェリアスティーナを睨んだまま、とっさに剣の柄へ手をかけた。その場の面々が飛びつくようにしてアシュートを押さえ込む。
『馬鹿者、そんなことをしてなんになる! 災いが引き起こされ、犠牲者の数が桁違いに膨らむだけだぞっ』
『この女を牢に繋いで、二度と日の光のもとに連れ出さねばいい! でなければ、いつまでも同じようなことが繰り返されるだけじゃないか!』
 アシュートは我を忘れて叫び声を上げた。だがその声は届かない。
『牢に繋がれれば、私は舌を噛み切って死ぬわ』
 シェリアスティーナは歌うようにそう告げた。
『……お、お兄様……』
 我を失ったアシュートを沈めたのは、妹ミリファーレの涙に滲んだ声だ。
『やめて、お兄様。やめて……』
 アシュートの身体から急激に力が抜けていく。立っていられなくなって、アシュートはその場に両膝をついた。
『アシュート様、さあ、早く選んで』
 シェリアスティーナのどこか弾んだ声に、アシュートはのろのろと顔を上げた。両手で口元を覆い震えているミリファーレが視界に入る。目が合った途端、ミリファーレは激しく頭(かぶり)を振った。
 誰を選ぶのか。いやだ、誰も選びたくない。だが選ばなければ犠牲者の数がいたずらに増えるだけだぞ。誰かを選ばなければならない。誰を選ぶのか。さあ、早く――。
 早く選べ!

「結局私は、妹のミリファーレを選びました。そしてその翌日、残りの者たちは全て処刑された。妹は、たった一人を選んだ私を許しませんでした。それに一人助かってしまった自分自身のことも許せなかったのでしょう。私たちの間には埋められないほどの溝ができてしまった」
 そんな折に、シェリアスティーナからミリファーレを追放するとの命令が下された。アシュートが手を差し伸べる暇もなく、ミリファーレは王宮から消えてしまったという。
「このことを知っている者は王宮内にもほとんどいません。さすがに聖女が婚約者の親類縁者を処刑したというのは体面が悪すぎますから、真実は隠されたのです。……とはいえ、突然十人を数える人間が消えてしまったので、なにが起こったかを悟る者も多いでしょうが」
 シェリアは黙ってアシュートの横顔を見つめ続けた。
 かけるべき言葉など、見つかるはずがなかった。自分はあまりにも無力で――そして、痛みを分かち合うには部外者にすぎる。
 なにも、できない。なにも言えない。
「それでも私は、王宮に残ることを選びました。真実を知る者にはとても理解できないでしょうね。そこまでの仕打ちを受けてなお、どうして第一神聖騎士の座にしがみつこうとするのか。なぜ、誰よりも憎むべきシェリアスティーナ様の婚約者という立場に、甘んじていられるのか。もっと他にするべきことがあるのではないかと……歯痒い思いをした者は多いでしょう」
「そんなこと」
 ない、とシェリアは心の中で断言した。
 アシュートが自らの心を押し殺してまで貫きたかったもの、それがなにか分かる気がする。どれほど自分が傷つけられようと、絶望に苛まされようと、それでも譲れないものがある。自分を支えに日々を暮らしている人々――幻想でもなんでもなくて、そういう存在が確かにあるのなら、彼らのために真っ直ぐ立っていたいと思う。たとえ自分が傷だらけになろうとも、それでも背中を向けて逃げ出すことはしたくない。他にはもうなにもないから、なおさら――。
「この話を私の口から語るのは、これが初めてです。思い出すのが辛くて語りたくなかったというよりも、私の全身が拒んで、語りたくても語ることができなかった。情けないことに、こうしている今も手の震えを止めることができずにいます」
 アシュートの長いまつげが伏せられた。しっかりと組まれた彼の両手が、確かに小さく震えている。未だ過去に縛られている――その言葉の通りだった。まだ彼の中で、問題は清算されていない。だがそれも当たり前だ。容易に切り捨てられる過去であるはずがない。身体に絡みついた長い衣のように、いついかなるときもアシュートを圧迫し苦しめているのだろう。
「それでも、前ほどの苦痛を伴わずに思い出すことができるようになったのは、時の流れと――そしてあなたのお陰だと思っています。あなたには、これがどれほど大きなことなのか分からないかもしれませんが」
 分からない。正直に言えば、その通りだった。そうまでアシュートの心情に影響を与えるようなことをした覚えは、シェリアにはまるでなかった。むしろ救われていたのは自分の方だ。だがそう言えば、きっとアシュートは強く否定するだろう。
「私は、あなたにこそ側にいてもらいたいと思います。そう思うことで、元のシェリアスティーナ様に申し訳なく思う気持ちはありません。かつてのシェリアスティーナ様になにが起こっていたのか、その真実を知ることができて、肩の荷が一つ下りた気がしました。ですが、それと彼女を受け入れることはまた別の問題だと思っています。あなた自身を必要としているのは、きっと他の誰よりも」
「アシュート」
 震えそうになる声をどうにか沈めて、シェリアは静かにその名を呼んだ。
 ――嬉しい。とても嬉しい。けれど同時にやるせない。シェリアは自分の感情を持て余している。
「それ以上は言わないで。お願い……」
 今のシェリアには、アシュートの真っ直ぐな言葉を受け止めることができなかった。あの日剣を捧げられたときもそうだ。嬉しいけれど、だからこそ向き合うのが怖い。砂の山に頼りなく立てられた一本の小枝のように、今のシェリアはあまりにも無力で危うかった。
「あなただけはシェリアスティーナ様を見捨てたくないと、そう思っているのですか」
 見捨てる。
 その言葉がはっきりとシェリアの胸に刺さった。シェリアがライナスに尋ねたとき、彼はなにも言ってくれなかった。ライナスはシェリアスティーナのことを見捨てたりしないでしょう? その問いに返されたのは、影のある微笑みだけ。
 シェリアの望んだ答えは返ってこなかった。
「見捨て……たくない」
「他の誰も、彼女の帰りを待ち望んでいなくても?」
 それが事実なのかもしれない。もうずっと昔から、人々が必要としていたのは彼女の首もとの聖印だけだったのかもしれない。それさえあれば中身がなんであろうと大差はないと、皆が考えていたかもしれない。シェリアスティーナがそれを思ったことも、ともすればあっただろう。
「見捨てたくない」
 今の自分を囲んでいる全てと別れてこの身体を離れていく、その覚悟はまだしっかりとできていない。それに、自分のこれまでの行動における功罪についても分からない。ただはっきりと分かるのは、会ったこともなく、話したこともなく、同じ時を過ごしたことさえないシェリアスティーナという少女を、見捨てたくないと確かに思っていることだった。
 近いようで、遠い存在。遠いようで、近い存在。とても不思議な二人の関係――。
 アシュートは強く唇を結んだままシェリアを見つめていた。言いたいことは山のようにあったであろうし、そのほとんどはシェリアにも思いあたった。それでも、いや、だからこそシェリアはそれ以上なにも言うことができなかった。
「もともとのシェリアスティーナ様は、今どこに?」
 静かなアシュートの声に、シェリアも必死に自分を落ち着かせようとする。
「分からない」
 シェリアスティーナは神のもとで休息をとっているという。だがもう、どこまでが建前でどこからが本当なのか分からなかった。シェリアスティーナは、今どこでどうしているのだろう。
「今の私には、シェリアスティーナを感じることは全然できない。だからずっと分からないままだった。シェリアスティーナが残酷な振る舞いをするようになった理由とか、いろいろなことが。それで私、本当のことが知りたくて、シェリアスティーナの影を追いかけていたんだ」
 誰かに頼まれたわけではない。やっと彼女の真実を手にしたが、それでなにかを判断したかったわけでもないのだ。
「私はただ、知りたかった」
 アシュートは再び口をつぐんだ。シェリアの言い分を非難するというよりも、なにかを考えあぐねている様子だった。
「……私にはまだ少し、かつてのシェリアスティーナ様のことで気になる点があります」
「気になる点?」
「はい」
 語るべきか語らぬべきか、彷徨う視線が彼の迷いを代弁している。
「シェリアスティーナ様のことを調べている中で、聖女としての能力についても色々と文献を漁ったことがあるのです。彼女の能力についてはあまり話に上ったことがなかったので、気になりまして。結局当時はどんな能力を持っているのか分からずじまいでしたが、調査の過程で歴代聖女の能力についてはずいぶん詳しくなりました」
 聖女の能力。その言葉だけでシェリアの胸が痛んだ。かつてのシェリアスティーナは、その力のために破滅の道を辿ることになってしまったのだから。
「かなり昔の聖女についてまで、辿ることができたと思います。程度の差こそあれ、皆なんらかの能力を有していました。流れ星を生み出すことのできる能力というように、日常生活の中ではなかなか気づくことのできない力を持つ聖女もいましたが――その中に、シェリアスティーナ様のような強い『負』の力を持つ者は、一人としていなかった」
 はっとシェリアは身体を強張らせた。まじまじとアシュートの顔を見つめる。
「聖女の能力は、ヴェーダ神からの祝福と言われています。つまり、役に立つ立たないは別として、少なくとも忌むべき能力はこれまで与えられたことがない。皆が聖女を崇めるのには、そんな面もあったと思います。普通の人間には得られない、奇跡の力を持つ娘、と。それがなぜシェリアスティーナ様にだけ、このような恐ろしい力が授けられてしまったのでしょう?」
 言われてみれば確かにそうだ。シェリアが自分で調べただけでも、人に敬遠されるような能力を持った聖女はいなかった。それなのになぜ、シェリアスティーナだけが。
 ライナスは、恐らく初めからそうだったのだろうと言っていた。聖女の能力とはそういうものだ、と。しかし本当にそうなのだろうか。だとしたら、今の自分が感じている別の力は一体誰のものということになるのだろう。植物の成長を促す力。ユーナだった頃に薬草を扱う生活をしていたから、それが影響されただけなのか。それとも?
「ふと思ったのです。シェリアスティーナ様は孤児ということでした。十四歳で王宮に上がるまでは施設で育ってきたと聞いています。施設だからどうというわけではありませんが、それでも、もしかしたら、孤児院の生活の中でなにかがあったのかもしれないと……」
 孤児院での生活で、なにかが。
 シェリアはアシュートから目が離せないまま、呆然と瞬きを繰り返した。――シェリアスティーナの苦しみを、シェリスティーナの真実を知ったと思ったけれど。
 まだだ。
 まだ明らかになっていない、彼女の苦しみがあるのかもしれない。
 シェリアスティーナに忌むべき能力が授けられたのには、なにか理由があったとしたら?