65.

 孤児院を出て更に馬で下っていくと、森の入り口は思ったよりも早く見えた。なるほど、森の手前に密やかな墓地が広がっている。ほとんど人は来ないのだろう、閑散としていて物寂しげな雰囲気が、ますますシェリアを憂鬱にさせた。すぐ後ろに迫る欝蒼とした木々の迫力もあってか、あまりこの場に長居したいとは思えない。
「誰もいないのでしょうか?」
 馬を止め、アシュートが周囲を見渡しながら呟いた。シェリアもそれに倣って視線を巡らせるが、人影はどこにも見えない。代わりにみすぼらしい墓石が点在しているのみである。寂しい場所だ、とシェリアは改めて思った。
「こんなところに墓地ってあるんだね。教会の中とか丘の上とか、そういうところにあるのが普通だと思ってた」
「……おそらくは」
 アシュートは馬を降り、そのまま馬上のシェリアに手を差し出した。シェリアをしっかりと支えながら地面へ降りる手助けをする。
「普通の墓地ではないのでしょう。市民権を持たない貧民層の墓地か、あるいは犯罪者の埋葬地なのだと思います。わざわざ墓守をつけて管理しているということは、後者なのでしょうが」
 どの墓にも花の一輪さえ供えられていない。遺族にほとんど振り返られることのない墓場。しかし雑草が生い茂って視界を遮るわけではなく、最低限の手入れはされている。確かにここには時折足を運ぶ誰かがいるのだろう。
 それが孤児院の前院長なのかもしれない。
「あちらに小屋がありますね。ちょっと行ってみましょうか」
 アシュートが顔を向けた先には、確かに小さなほったて小屋があった。こちらも廃墟と見紛う痛み具合で、まるでそれを恥じているかのように木の影に隠れて見える。シェリアは頷くと、アシュートの後に続いて小屋へ近づいた。
 小屋はやはり無人で、すぐ側まで近寄っても物音一つしなかった。もしや本当に廃墟なのではと扉に手をかけると、拍子抜けする程にあっさりと開く。その扉の向こうには部屋が一つ広がっていた。
 テーブルにベッド、そして棚など、必要最低限の家具が備えられている。どれも小屋と同じく痛んでいるが、使われていないわけではなさそうだ。人の住まう気配はする。ただ今は留守にしているのだ。
(ここに、いるんだ。やっぱりここで暮らしてる)
 シェリアは説明のできない緊張感に襲われた。今までたったの一度さえも会ったことのない人物を思い、身体が固まる。ただ話に聞いていただけの男だ。それなのにシェリアの指先は緊張のためにどんどん冷たくなっていく。
 確かに「ユーナ」にとって前院長のダンキスは見知らぬ他人でしかない。しかし「シェリアスティーナ」にとっては違う。彼女にとっては全ての始まりとなる人物。否が応でも、彼女の人生に大きな意味を持つ人物だ。だからこそ今のシェリアにとっても、これは息苦しさを感じる再会だった。それほどの時間を、シェリアはこの身体で過ごしている。
「今は誰もいないようです。今日は一旦帰りましょう」
 アシュートは部屋の奥まで立ち入ろうとはせず、入り口の側で踏みとどまったままそう言った。
「でも」
 一方のシェリアは簡単に引き下がる気になれなかった。一旦、とは言うが、ここで引き返せば次に王宮を出られるのはいつになることか。そもそも自分に次を待つ時間が残されているのかも分からない。今会わなければもう会えない。確信に近い予感がシェリアの中に沸き起こった。
「ここで待たせて。どうしても今日会いたいから」
 きっぱりと答えると、アシュートは一瞬押し黙った。反対されるだろうかという不安と、きっと反対しないだろうという安堵感のようなものが、ない交ぜになってシェリアを包む。矛盾したどちらの気持ちに引っ張られるべきかと迷いかけたが、その答えが出るより先にアシュートが口を開いた。
「――分かりました」
 アシュートの答えにほっとして、シェリアは小さく息をつく。
「ありがとう。私のわがままにつき合わせてばっかりでごめん」
「謝らないでください。つき合わされているというつもりはありませんから。今日は、あなたの思うままに行動してください」
 うん、と頷き、もう一度部屋の中を見渡す。だがそれでダンキスが戻ってくるわけでもなかった。家主のいない家の中で勝手に待つわけにもいかず、二人は小屋の外で時間を潰すことにしたのだった。

「アシュートは、さ」
 木の一本にもたれかかりながら、シェリアはぽつりとアシュートに話しかけた。
 小屋から出てしばらくは無言で時を持て余していたシェリアたちだったが、考えてみれば二人でじっくり話をできる機会などあまりない。アシュートが孤児院でずっと口をつぐんでいたのも気になっていたし、彼がシェリアスティーナの真実をどう思っているのか聞いてみたいと思ったのだ。
「シェリアスティーナのこと、びっくりした?」
 とはいえ、どう問いかけていいのか分からず曖昧な言い方になる。持て余した視線を地面に落とし、足のつま先で草をいじるシェリアを、アシュートは静かな瞳で見つめていた。
「驚いた、というよりも、ああそうなのかと納得したという感じです」
「納得?」
「シェリアスティーナ様の育った孤児院で、私の感情は思いのほか落ち着いていました。逆に言えば、彼女の過去を追体験してみても、驚きや悲しみ、怒りといった激しい感情の動きがまるでなかった。私にとってシェリアスティーナ様の過去は、どこか遠い世界の話のように思えてしまう」
 そう話すアシュートの横顔も完全に落ち着いていた。彼にとってのシェリアスティーナは、孤児院で孤独と戦い続けた少女とは別人なのだ。残酷に笑い、残酷に振る舞い、残酷な仕打ちをする美貌の娘と小さな少女は、決して一つになることはない。ただ、そんな聖女を形作った全ての原因が明らかになって、それがすとんと胸に落ちただけ。そういうことなのだろう。
 だからといってアシュートが冷淡だとは思わない。アシュートの中のシェリアスティーナは、もはや同情だとか憐れみだとかを抱くには、あまりに歪んだ存在になってしまったのだ。彼女の過去を知って全ての罪を許そうと心が動いたなら、アシュートは過去の重みに耐えられず今度こそ壊れてしまうかもしれない。シェリアスティーナを憎み、己を呪い、やっとアシュートは立ってここまで歩いてきたのだから。ユーナである自分に対して優しく接してくれることも、彼には大変なことに違いない。
「私はやはり、どんな真実を知っても、私たちの過去についての思いは変えられない。もちろんあなたにまで私の気持ちを押しつけようとは思いません。あなたはあなたなりに、シェリアスティーナ様のことを受け止めてくださればいいと思います」
「私はね、すごく悲しくて、悔しくなったよ。どうしてこんな風になるまで、なんにもどうにもできなかったのって叫びたかった」
 シェリアはぐっと顔を上げて、のんびり流れていく雲を眺めた。穏やかな風景にはまるで似つかわしくない今の気持ちに、なんだか泣けてきてしまう。
「でもあなたは、そうしませんでしたね。とても落ち着いているように見えた」
「だって私にはその資格がないから。私には、シェリアスティーナの過去を知ってやるせない気持ちになることはできても、それを誰かにぶつけることはできないよ。私は、」
 シェリアスティーナじゃないから。
 最後まで言葉にしなかったが、アシュートには言いたいことが伝わっただろう。アシュートはわずかに責めるような口調になってシェリアに言葉をぶつけた。
「そうでしょうか? あなたはこれまで、シェリアスティーナ様を責める皆の声を必死に受け止めてきたではないですか。それで多くの者が救われたはずです。今度はあなたが自分の思いを誰かに伝えたっていいはずだと思います」
 シェリアはふるふると首を振った。
「私は十分自分の思いをみんなに伝えてきたよ。でも、このことだけは別だと思う。シェリアスティーナの過去については、知れてよかった。ただ知りたいと思って、自分のその気持ちのまま今日ここまで連れてきてもらって、本当によかったと。だけどこれ以上は、踏み込んじゃいけない。うまく説明できないけど、そう思うんだ」
「しかし……」
 尚も言葉を畳みかけようとしたアシュートだったが、シェリアの向こう側になにかを捉えた様子で、はっと目を見開き言葉を切った。つられてシェリアも振り返る。一つの影が、ゆっくりとこちらに近づいてくるのが目に入った。
 ――もしかして、あれは。
 近づくごとに輪郭がはっきりとする。薄汚れた衣服を身にまとった、痩せぎすの男だった。浮浪者とも見える姿に、一つ紙の袋を抱えている。袋ばかりが真新しくてそこだけ浮いているように見えた。生気のない表情でこちらを伺いながら歩いてくる様は、亡霊のようでもある。しかし男の視線が完全にシェリアを捉えた途端、濁った瞳に光が宿った。と同時に、その手からばさりと紙袋が滑り落ちる。袋の口から土のついた芋がごろりと転がり出た。
「う、あ」
 男は言葉にならない声を発した。感情の高ぶりがそのまま音になっただけ、というように。そしてふらりと身体を揺らすと、一直線にこちらへと駆けてくる。
 思わずシェリアは身をすくめて後退った。アシュートが庇うように前へ出る。男はそれでも構わず二人のすぐ目の前まで近寄ると、アシュートなど目に入っていないようにシェリアだけを真っ直ぐ見つめた。
「シェ、シェーラ。シェーラ、シェーラなのか」
 低く震える声で、男は何度も名前を呼んだ。止めて、名前を呼ばないで、とシェリアは心の中で悲鳴を上げる。呼ばれ慣れていない名前のはずなのに、この男が口にするのには耐えられない。
「まさか私に会いに来てくれたのか。生きているうちにもう一度お前に会えるなんて……。ああ、ずっとこの地で神に許しを請うてきたが、その思いが通じるとは」
 興奮冷めやらぬ様子のまま、男が右手を伸ばしシェリアの頬に触れようとした。その手をアシュートが鋭く払いのける。
「触れるな。この方は、お前ごときが触れていい存在ではない。お前の娘ではないのだ――今も、そして昔も」
 毅然とした声に、男は怯んで手を引っ込めた。おどおどと視線を周囲に飛ばし、突然舞い降りた夢ともつかぬ状況に戸惑っている。その姿は哀れであり、滑稽でもあった。
 そんなやりとりを目の前にしながら、シェリアはごくりと唾を飲んだ。どくどくと波打つ心臓を落ち着かせようとするが、どうにもうまくいかない。
 前院長に再会することの意味を深く考えていなかった自分に気づかされてしまう。彼がどんな目で自分を見るのか、どんな風に口を開くのか。そういったことを、なにも考えていなかった。こうして実際に対面した今、彼の瞳になお宿る狂気の色に気づかされ、途端に恐ろしくなってしまう。もっと落ち着いて話し合うことができると、勝手にそう思っていたのかもしれない。
「……あなたがダンキスさんですね」
 相手の狂気に流されるな、とシェリアは自らに言い聞かせた。努めて感情を押し殺した声で話しかける。恐らく声は震えなかったはずだ。その証拠に、男の熱がわずかに引いたように感じられた。もう一度恐々とシェリアへ目を向けた男の表情には、「シェーラ」ではない他人を見つめるそれになっている。
 彼はシェリアの問いに頷かなかったが、それが彼の答えだと見て間違いなかった。
「あなたが」
 シェリアにはそれ以上なにを言えばいいのか分からなかった。わがままを通して会いに来た、孤児院のかつての院長。今はその肩書きとはまるで不釣合いな、一人の小汚い男でしかない。しかしシェリアは全身の力が抜けていくのを感じていた。――やっと会えた。この人に、全ての始まりに、やっと辿り着いた。
 シェリアは顔を上げて大きく息をはいた。鼻の奥がつんと痺れる。
「シェーラ、私に会いに来てくれたんだろう?」
 怯えた声でダンキスが問いかけた。泣かないようにと空を睨んでいたシェリアは、改めてダンキスに視線を戻す。そう、私はあなたに会いに来たんだよ。その通りだ。しかし、なぜか頷くことができなかった。
「私のことを憎んでいるのか」
 ダンキスの瞳が淋しげに揺らぐ。
「そうだろうな、もちろんそうだろうとも。私は間違ったやり方でお前に接していたから」
「……」
「だがこれだけは信じてくれ。私は本当にお前を愛していたよ。いいや、今でも愛している。嘘じゃないんだ、本当なんだ。ただ接し方を間違えていた。それでお前のことを傷つけてしまったんだろう。そのことはとても後悔している。だから私はあれからの人生をこうして懺悔の日々に費やしてきたんだ。シェーラ、なあ、今の私の姿を見れば、どれほど私が悔い改めているか分かってくれるだろう」
 ダンキスは話すほどに勢いを増していった。彼の中の狂気が再び膨らんであふれ出してくる。言葉だけでは自分の思いの半分も伝えられないというように、半ば身を乗り出すようにしてシェリアににじり寄ろうとした。シェリアは逃げ出したいほどに嫌悪感を覚えたが、それ以上の憤りがその身を地に縛りつけた。
「近寄らないで」
 はっきりと拒絶すると、途端にダンキスはうろたえる様子を見せた。先ほどから滑稽なほどに同じことを繰り返している。彼は狂気と正気の間を彷徨っているのだ。シェリアたちがここに現れるずっと前、孤児院を後にしたときから――いや、もしかしたら、もっともっと遠い昔から。
「シェーラ、私たちはまだ分かり合えるだろう。そのために来てくれたんじゃないのか」
 そんなわけがない、と喚きたかった。だが、それではどうして自分はここへ来た? シェリアスティーナに変わってダンキスを責め立てたかったわけじゃない。だからといって、もちろん彼を理解したかったわけでもない。
 私は、私は。
 泣きたい感情が再びシェリアを襲った。高波のように押し寄せてきて、シェリアを丸ごと攫っていこうとする。
 だめだ、泣いちゃだめ。シェリアはもう一度自分を叱咤した。自分は本当に泣き虫なのだと呆れながら。しかし同時に、ああ分かったとひらめくものがあった。
 自分はこうしたかったのだ。
 ただ嘆き、悲しみ、様々なものに怒り、自分の無力を呪いたかった。
 シェリアスティーナが感じたとおりに。

「ダンキスさん」
 シェリアはやるせない思いのままその名を呼んだ。
「確かに私は、あなたに会いにここまで来ました。でも、あなたと分かり合うためじゃない。ただあなたに会って、私の気持ちを確かめたかった。全てを受け止めて、この気持ちを知りたかったんです」
 ダンキスの表情がひどく歪んだ。その表情のまま、なにかを言おうと口を開いた。しかし聞きたくはない。シェリアにはダンキスの言葉をこれ以上受け止めることなどできやしない。ましてや、それを以ってなにかを許すことだって。
「それ以上のことは私にはできない――」
 シェリアはダンキスから目を逸らし、噛みしめるようにつぶやいた。
「私の身勝手につき合わせてごめんなさい、ダンキスさん。あなたにとっては、この姿の私とは会わないほうがよかったんでしょうね。それについては申し訳ないと思っています。でももう、“私が”ここに来ることは二度とありません。――アシュート、行こう」
 シェリアはアシュートの腕を引いて踵を返した。その背中にダンキスの慌てた声が縋りつく。
「待て、待て、待ってくれシェーラ! どうすれば私の話を聞いてくれる? 聞いてくれさえすれば分かってもらえるはずなんだ。私がどれだけお前のことを愛していたのかも、その想いが不幸なすれ違いで歪んでしまったのかも!」
 聞いちゃだめ、聞くな、聞くな、聞くな。
「今だってお前を愛しているからこそ、罪の意識に苦しんでいるんだ。お前がそれを分かってくれないと、私は救われない! 助けてくれシェーラ。ずっとお前を待っていたんだ。助けてくれ」
 聞くな――。
 ぎゅっとシェリアは目を閉じた。立ち去ろうとした両足が地面に縫いとめられる。アシュートが無言でシェリアの腕を引いてくれたが、それでもシェリアは動けなくなってしまった。
「シェーラ、私を救えるのはお前しかいないんだ」
 足を止めたシェーラの気を引こうとしているのだろう、ダンキスの声音がわずかに柔らかくなった。
(ああ、もう耐えられない)
 ぐっと歯を食いしばったシェリアは、勢い込んで振り返った。