83.
身体がだるい。頭が痛い。
喉が渇いて、声も出ない。
まぶたが重い。
ああ――。
ぐっと眉根を寄せてから、ユーナはゆっくりと目を開いた。
薄暗がりの中、それでもわずかな光を眩しく感じて、まぶたをうまく持ち上げられない。長い時間をかけてようやく目を見開くと、滲んだ視界に見知らぬ景色が映りこんだ。
ここは一体どこだろう。
ぼんやりとそう思いながら、数度瞬きを繰り返す。まぶたが鉄のように重く感じられるので、それすらもひどい重労働に感じられる。
やがて視界が焦点を結び始めた。目に映っていたのは、建物の柱や天井のようである。というのも、あまりにそれらが高い所に見えるので、視界が鮮明になってもにわかには判別できなかった。
(なに、ここ……)
周囲を見渡そうとしたが、まるで身体が言うことを聞いてくれない。自分が岩にでもなってしまったのかと思うほどだが、目だけは動くところを見るとそういうわけでもないらしい。
改めて、視線だけで周りを確認してみた。やたらと高い天井――しかしこの部屋自体は、さほど大きくはないようだ。側には古ぼけた女神の像や、使いこまれた様子の蝋燭立てなどがある。それらに加え、やけに立派な大理石の床や柱から察するに、どうやらここは教会の一室らしい。
そして。
自分はこの雰囲気に覚えがある。
(似てる……。私が昔、よく来た、教会に)
見知らぬ場所などではなかった。自分が「ユーナとして」暮らしていた頃、家の近所にあった教会ととてもよく似ているのだ。
鈍い思考回路でユーナは考えを巡らせた。
自分の願望が、懐かしい景色を見せているのだろうか? もう二度と帰れない場所に、最後の最後に身を置いている幻を? だとしたら、自分は今度こそ消えてしまうのだろうか。
直前までの自分の状況を思い起こす。
白の世界に呼び戻され、天使アンジェリカと少し話をし、それからついにシェリアスティーナと向き合った……。
(あ、れ?)
そこでふと違和感を感じる。
シェリアスティーナとの会話で、どんなやりとりをしたのだったか。別れ際、もう一度前向きに生きてみると彼女は約束してくれた。それから?
(あ……)
聖女としての能力で、ユーナを救うと言ったのだ。
心通わせた者の「生」へ向かう力を増幅させる能力で――。
「緩やかに夜の帳(とばり)が下りて、世界は静寂に包まれる。けれど明けない夜はない。日の光とともに、あらゆる生命は再び息を吹き返す……」
どうにか考えをまとめようとしたユーナの耳に、唐突にそんな声が飛び込んできた。
扉のない出入り口の向こうからだ。ユーナは渾身の力を込めて頭を動かす。なんとか扉の方を振り向くことができたと同時に、一人の年若い女性が今まさに部屋の前の通路を通り過ぎようとするのが見えた。露出の少ない濃紺のワンピースを身にまとい、大きな水がめを抱えている。
「あ……、あ」
無意識に呟いたユーナは、今のひどく掠れた声が自分のものだと気づいて驚いた。
だが、驚いている間にもは彼女は行ってしまう。彼女を呼びとめたい。この状況を、説明してもらいたい。
「ま、待って、下さい……!」
ひび割れたユーナの声はずいぶんとか細いものだったが、それでもどうにか女性まで届いたようだった。しかし、穏やかな形で彼女を呼び止めることはできなかった。彼女はぎくりと身体をこわばらせると、その弾みで抱えていた水がめを取り落としてしまったのだ。
ユーナの声の何十倍もの音を立てて水がめは砕け散った。そして女性は、大きく口を開いたまま微動だにせずユーナの方を見つめている。
なぜ彼女がそんなにも驚いているのか、ユーナにはよく分からなかった。よほど自分はひどい姿をしてるのだろうかと不安がよぎる。しかし、今更そんなことを気にしても仕方がない。ユーナは、どうにか彼女に向き直ろうと、重い頭を持ち上げた。今しがた無理やりにでも首を動かしたことがよかったのだろうか、次第にユーナは身体の自由が戻りつつあるのを感じていた。慎重に両腕をついて、今度は上体を起こそうと試みる。そして女性に今一度声をかけようとしたのだが――そこへきて、彼女がいきなり天井を突き破るほどの甲高い悲鳴を上げたのである。
水がめの割れる音と相まって、彼女の声はよほど遠くまで届いていたのだろう。間もなく通路の向こうから、別の人影が姿を現した。
「なんだ、どうしたんだ、マリーさん」
その男性の声を、ユーナが聞き漏らすはずがない。
あまりのことに再び全身の力が抜けそうになった。けれどもう意識を手放したりするものか。絶対に、絶対に。
「お――、おとう、さん!」
小さな声で、しかし精一杯叫んで、ユーナは寝かされていた台から身体を丸ごと投げ出した。大した高さではなかったが、地面に叩きつけられた衝撃で鈍い声を上げる。痛がっている場合ではない。ユーナはなおも気を抜かず、必死になってもう一度身体を起こそうとした。全身が悲鳴を上げるが気にしてなどいられない。
だがその時、歯を食いしばるユーナを不意に誰かが抱え上げてくれた。はっとして顔を上げると、目の前にはあまりにも懐かしい姿がある。
「ユ、ユーナ……」
「おとうさん、おとう、さん」
それはユーナの父、レンドであった。なにも考えられずに思い切りしがみつくと、レンドも強くユーナを抱きしめ返してくれる。
信じられない。こんなこと、ああまさか、信じられない!
「ユーナ、本当にお前なんだな。目が、覚めたんだな。本当に、本当に」
「うん、うん。私だよ、ユーナだよ。お父さん」
なにがなんだか分からない。もう、言葉にさえならない。全てが幻の延長なのかもしれないと、怯えそうになる自分もいるけれど。
こうして自分を抱きしめてくれる父親の温もりは、紛れもなく本物だった。
どうやら自分は、生きている。
状況を冷静に受け止められるようになるまで、丸一日もかかってしまった。
いや、数日が経った今でも、完全には落ち着けていないのかもしれない。
ユーナが寝かされていたのは、やはり教会だったらしい。実家の近くにある、ユーナも子供の頃から足しげく通った小さな教会の一室で、この一年近くを眠って過ごしていたというのだ。
あの後、報(しら)せを受けて駆けつけた母親のマデラとも、大泣きしながら抱き合った。あまりに泣いたせいで、呼吸困難になってしまったほどだ。すっかり衰弱しているユーナの身体は、涙を流すことさえうまくできなくなっていた。
それでも、どうやら自分は、生きている。
運命のあの日――馬車に轢かれたユーナは、息も絶え絶えの状態で病院へと運び込まれたという。
懸命な治療も空しく、そのままユーナはこん睡状態に陥ってしまった。もって三日、それ以上は無理でしょう、医者は残酷な宣言を口にした。
両親は覚悟を決めて、一旦はユーナを自宅へ連れ帰った。再び目を覚ます可能性はないのだと頭では分かっていたが、それでも一日中、夫婦でユーナに声をかけ続けた。最期の瞬間を迎えるまで、ずっとユーナの側にいてやろうと決意して。そしてユーナがそんな両親の声に応えることはないままに、一日二日と過ぎていき……。
三日目、やはりユーナは目覚めなかった。
しかし、呼吸を止めてしまうこともなかった。
かすかだが、確かに自ら呼吸をしている。両親は一縷の希望を抱いた。もしかしたら、奇跡は起きてくれるのかもしれない。今にも目を覚まして、自分たちの名を呼んでくれるのかもしれない――。
それからの月日は長いものだった、と父のレンドは言った。いくら呼吸をしていても、食べ物を摂らねば衰弱死してしまう。なんとか水だけは飲ませて、ユーナが目覚めることをひたすら待ち続けた。ごく少量の水だけで生きられるのは、どんなに頑張っても一カ月。その間に目覚めなければ、もう駄目なのだ。
そして半月が過ぎたころから、両親はユーナの不思議な状況に気づき始めた。
水だけしか飲ませていないというのに、ユーナの見た目がほとんど変わらないのである。栄養という栄養は摂っていないのだから、どんどん痩せ細っていくものと思っていた。しかし半月が経っても、それから更に一週間がたっても、ユーナの姿は変わらない。いや、むしろ馬車に撥ねられた際の怪我が順調に回復しているようにすら感じられる。ユーナは、ただひたすら眠り続けているようにしか見えなかった。
一か月が過ぎても状況は変わらなかった。呼吸を止めることはないが、目を覚ますこともない。そして痩せてしまうこともない。二か月、三か月、四か月。時はどんどん過ぎていくが、ユーナだけは時間に取り残されたようにそのままだった。
そしていつしか、ユーナは奇跡の娘として、密かに周囲から持ち上げられるようになる。ヴィーダ神の加護を受けているのだと町の人々は祝福し、しかし同時に、この事実が王宮に伝わって「聖女ではない奇跡の娘」になんらかの制裁が下されることを恐れもした。町の小さな教会が、ユーナの身を自分たちで預かろうと申し出たのがその頃だった。それから今日まで、神父を務めるデルとマリーの父娘の力を借りながら、ユーナが目覚める奇跡をひっそりと待ち続けてきたのだ。
大変なことになっていたんだな、ユーナは自室のベッドで横になったまま、改めてこれまでの流れを思い返し、息をついた。
一番初めに白の世界へ呼び寄せられた時点で、ユーナ自身は、自分が死んでしまったと信じて疑わなかったし――天使アンジェリカとて、そのようなことを言っていたはずだ。いや、だがしかし、よくよく思い返してみれば、確かに彼女はユーナが「死んだ」とは一言も言っていなかっただろうか。
(でもきっと、死んでいたようなものだよね)
今こうして瞬きをしていられるのも、天井に向かって両腕を伸ばすことができるのも、シェリアスティーナの力があってこそだ。彼女が自分を救おうとしてくれなければ、やはり意識を取り戻すことは叶わなかっただろう。
(“生きる力”を増幅する能力――か)
ベッドの脇、花瓶に活けられた色とりどりの花々に、そっと目をやる。
幼い頃のシェリアスティーナや、シェリアとしてのユーナが心を込めて触れた植物が、尋常ではない育ち方をしたというのも、その能力によるものだったのか。
ユーナは右手をのばし、小さな花びらに触れてみた。
慈しみを受けた花々は、同じく慈しみを返してくれる。植物とでさえも、心通じ合うものなのだと思うと、なんだか嬉しかった。
(ノイエさんの時には、力をうまく使えなかったと言っていたけど)
自分は、シェリアスティーナによって、こうして生かされた。
ノイエの分も、しっかりと生きていかなければならない。
それから更に数日が経って、ユーナの体力は劇的に回復していた。
当初ほとんど動けず声も上げられなかったのは、一年の長きにわたって眠り続けた故の弊害だったらしい。筋肉がそぎ落ちてしまったわけでもないようなので、目覚めて三日も経てば、ベッドから降りて自分の力で歩くことができるようになった。一週間後の今では、自宅の中であれば歩き回ってもそれほど疲れることもない。普段通りの生活ができるようになるまでそう時間はかからないだろう。
「ユーナ、入るわね」
母マデラが扉越しに声をかける。はあいと返事をすると、嬉々とした表情でマデラが食事を運び入れてくれた。
「調子はどう? ご飯は食べられそう?」
「うん、お腹すいた。そろそろ私も居間で食べるよ」
「でも、あんまり無理はしない方がいいわ。なんだったら、お父さんとお母さんもこの部屋で一緒に食べるっていうのはどう?」
「いいよ、そんなことしなくても」
ユーナは苦笑いを返した。
「もうほとんど大丈夫だから。お店の手伝いだってすぐにできるようになるよ」
「本当に、ねえ。奇跡というのは起こるものなのね」
マデラはベッドに腰掛けて、愛おしそうにユーナの髪をなでてくれた。
「この一年間、あなたはヴィーダ神のもとで過ごしていたの?」
「……ううん。なんだかね、色んなことがあった気がする」
ユーナは窓から見える外の景色に目をやった。なんの変哲もない、のどかな街の風景。その遥か先に王宮がそびえているのだ。今ここからは、その影すら見えないけれど。
そこで出会った人たちの顔を一つ一つ思い浮かべて、ユーナは顔を綻ばせた。遠くにいても、同じ空の下で同じ時を生きている。それはやはり、奇跡と呼べるこの上ない幸せなのだ。
(そうだよね、アシュート)
彼の名前を心の中で呟くと、胸がじんわりと温かくなり、同時に無性に泣きたくなる。
アシュートとは、もはやあまりに違う境遇にある。彼は国を支える第一神聖騎士で、自分はなんの力も持たないただの平民。彼の隣にはすでに並び立つ人が決まっていて――それは自分ではない。
アシュートと想いを通じ合わせたのは、ユーナではなく“シェリア”だったのだ。そして“シェリア”は、もうこの世のどこにもいない。
分かっては、いるけれど。
「ユーナ、どうかしたの?」
「え」
マデラの手が伸びてきて、再びユーナの頭を優しく撫でた。
「浮かない顔をしてるわ。体調が悪くなってきた?」
「う、ううん。ごめん、大丈夫。なんでもないの」
ユーナは慌てて首を振って、母親が用意してくれた食事に手をつける。薬草の入ったスープは少し苦いけれど、とてもおいしかった。
「それならいいんだけど。本当に、ちょっとでもおかしくなったらすぐに声をかけてちょうだいね。お願いだから」
「うん、分かった」
「じゃあお母さん、お店の手伝いに戻るわね。食べ終わったら食器は机の上に置いておいて。またしばらくしたら、様子見がてら取りに来るから」
「自分で一階に持っていくよ。ちょっとは動かないと、身体が固まっちゃう」
スプーンを口に運びながら笑顔を見せると、マデラはやっと少し安心したように微笑み返して部屋を出て行った。母親の足音がゆっくりと階段を下りて行くのを確認してから、ユーナはもう一度窓の外に目を向ける。
みんな、今頃どうしているのだろう。
ライナスはシェリスティーナが戻ってきて喜んでいるだろうか。ナシャなら彼女ともうまくやってくれると思うが、どうだろう。イーニアスも最初はきっと衝撃を受けるだろう。だが、シェリアスティーナだって以前とはもはや違うはずだ。少しずつでも、理解し合ってくれればいい。ジークレスト、ミズレー、ネイサン……いろんな顔が浮かんでは消えた。そして――。
(王宮、遠いなあ……)