86.
それからの日々も、変わらず穏やかに過ぎていった。あの日は結局、王宮の誰にも会わなかった。
久しぶりの王都をぐるりと歩いて回り、馬車に乗り、町へ戻って。母親に告げたとおり、町の近くにある小さな森で草花を採取して。その帰りには八百屋へ顔を出し、両手から溢れるほどの野菜をもらい。帰宅をすれば、ほっとした表情の両親に迎えられた。
王宮で貰った花びらは、小さな小瓶に入れて自室の机に飾ってある。
シェリアスティーナの加護を受けているからだろうか、幾日が過ぎてもその花びらが枯れることはなかった。そう――孤児院の、あのティカスラと同じ。ふとした折にその小瓶を眺めるたびに、心が穏やかになった。それはとても不思議な感覚だ。優しく、愛おしく、温かい気持ち。じんわりと胸の奥を満たしていく。
随分前向きになったと、ユーナは思う。
事故に遭う前まで、ただなんとなく生きていた日々は、どこかに行ってしまった。なにも大きな事件は起こらず、緩やかに、ひたすら穏やかに過ぎていく田舎町での毎日だけれど、ユーナはしっかりと前を向いている。シェリアとして過ごした間は、一年しか残されていないと思えばこそ、それこそ聖女のように振る舞うことができたのだと思っていたが、今のユーナの中には、確かに“聖女”の片鱗が残っているのだ。
薬草学を、もっとしっかりと学ぼう、と考えるようになった。
もともとは、両親の手伝いとしてなんとなく薬草に触れるようになっただけ。結婚して家を出る際には当然扱うこともなくなると思っていたし、だから薬草に関する知識もその程度のものだった。自分が作った薬を人に使ってもらえることは嬉しかったが、両親の跡を継いで店を盛り立てていくなどとは考えも及ばぬことだったのだ。
だが、もっと深くまで打ち込んでみたい、と今のユーナは思っている。心通わせた相手の生命力を高める、そんなシェリアスティーナの能力に応えた、「心」ある植物たちのことをもっと知りたい。それに、流されるように日々を過ごすのではなく、自分自身の足で毎日を“歩いて”いきたいのだ。
父親のもとについて熱心に学び始めたユーナに、両親も喜んでくれているようだった。本当にやる気があるのなら、王都の学校に通ってもいいとさえ言ってくれている。学費や寮費を出すくらいの蓄えならあるのだから、と。ユーナとしては、自分が王都で暮らす姿などまるで想像もつかなかったが、両親の思いを有り難く受け取って、前向きに考えているところだ。
そんなユーナの毎日には、新たな日課が一つ、加わった。
町の教会に、朝一番で足を運んでいるのだ。ユーナが眠り続けている間、その身を預かってくれていた、もう一つの我が家ともいえる教会。祭壇や長椅子、床の拭き掃除を手伝ったり、飾られている花を活け替えたり。そういった手伝いを続けるうちに、神父のデル、そして娘のマリーともすっかり打ち解けた。狭い町内だ、ユーナが子供の頃からある程度の付き合いはあったものの、なんでも気兼ねなく話をできるようになったのは目覚めてからのことだった。彼らと会って他愛のない世間話に花を咲かせることも、ユーナにとっての楽しみの一つになっている。
娘のマリーは、ユーナよりも二つ年上だ。儚げな雰囲気の優しい女性だが、その実見た目よりもずっとしっかりとしている。あの日、眠り続けるユーナが目覚めた瞬間を目撃した際には金切り声に近い悲鳴を上げた彼女だが、今ではそれも二人にとっての笑い話となっていた。
そんなマリーも半年後には嫁入りが決まっていて、父であるデルは寂しそうだ。ユーナが王都の学校へ通うことになればますます寂しくなるな、と彼はしょんぼりしているが、ユーナの背中を後押ししてくれている一人が彼だった。ユーナが目覚めてからは、その「奇跡」にあやかろうと教会にやってくる町人の数も増えたというから、きっと彼らがデルを支えてくれることだろう。
そう、ユーナの日々は、こんな風に変わらず穏やかに過ぎていた――。
窓から差し込む陽射しに起こされた朝。
大きく伸びをすると、ユーナはいつものように素早く身支度を整えた。
軽くパンをつまんで、人影もまばらな早朝の町中へ。
教会までは歩いて十分ほどで着く。今朝は普段よりも少し早いから、父娘はまだ来ていないだろう。
まもなく到着した教会の扉は固く閉ざされていた。思った通り、ユーナが一番乗りだ。思わずにっこり笑みを浮かべたユーナは、実は少しそれを期待していた。朝、誰もいない教会で過ごす時間がとても好きなのだ。ユーナは、預かっている合鍵を使って正面の扉を開けた。
扉の隙間から身を滑り込ませるように中へ入って、そのまましばらくじっと佇む。
物音一つしない教会には、厳かでいて慈悲を感じさせる柔らかい空気が満ち満ちていた。
おはようございます、胸の中で呟いて、祭壇に向かって目礼をする。ユーナはそのまま真っ直ぐ歩いていき、祭壇のすぐ側の長椅子に腰掛けた。神に祈りを捧げるというよりは、ただ座ったままぼんやりと時間を過ごす。こうして一度頭の中を空っぽにすることで、また新しい一日を新鮮な気持ちで迎えられる気がした。
ゆっくりと立ち上がり、祭壇脇へ。
ユーナがこの教会を大好きな理由の一つに――クラヴィディアの存在がある。
貴族のたしなみとして愛されている鍵盤楽器。こんな小さな町の小さな教会に置かれているのはいかにも不釣り合いというほど高価な楽器ではあるのだが、デルの父である先代の神父は、これ目当てに熱心に教会へ通う幼いユーナに好きなように触れさせてくれていた。
教会の片隅に忘れたように置かれているクラヴィディア。しかし丹念に磨きこまれ、いつだって埃一つかぶっていないことをユーナは知っている。きちんと定期的に調律されていることだって。
ぽん、と鍵盤の一つに指を置いてみる。すうっと通るような澄んだ音が教会に響き渡った。
王宮での自室にも、同じようにクラヴィディアを置いてもらったのだっけ。
ユーナはくすぐったい気持ちになって、わずかに目を細めた。あの頃は、まだシェリアとして王宮にはまるで馴染めていなかった。どころかその身に野菜を投げつけられ、犯人の処刑騒ぎにまで発展してしまったのだ。――ああ、本当に色々あった、あの頃は。
ユーナはクラヴィディアの椅子を引いて、腰を下ろした。
左右に伸びる長い鍵盤に目を落とす。一呼吸。
それから両手を持ち上げ、そっと鍵盤に指を添えた。
ユーナが弾くことができるのはたったの一曲だけだ。幼い頃に惚れ込んでから、ひたすらに練習し続けてきた一曲だけ。今でもユーナにとっては特別な、天上の音楽とも言えるほどの至高の一曲。
王宮で過ごした日々を経て、この曲は更にかけがえのないものになった。
最初の一音。続く音、音、音。水の零れるような繊細な旋律から。
自分の両掌の中、そっと包み込むように……けれど清(さや)かに。そこから少しずつ広がっていく調べは、蕾が大輪の花を咲かせたかのよう。
鮮烈な色をまとう花の舞は、不意に吹き抜けるそよ風の囁きによって散らされて。
ほんのわずかな沈黙。
そして再び息づき始める、微かなる旋律。
天から降り注ぐ光のように、希望と喜びに満ちあふれて。
最後――儚くも、雄大。やがて一音ずつ、姿を消していく。
溜息をつくような、低音。そして終曲。
「――懐かしい、曲ですね」
両手を鍵盤に添えたまま瞳を閉じていたユーナは、背中に掛けられた声に息を呑んだ。
今の、声は。
零れ落ちんばかりに目を見開いて、ゆっくりと振り返る。
信じがたい人の姿が、そこにあった。
「アシュート」
かすれる声で、その名を口にする。
少しくすんだ亜麻色の外套をまとい、真っ直ぐに背を伸ばして佇む黒髪の青年。理知的な色はそのままに、今は柔らかく細められた瞳。笑みを刷いた穏やかな表情は、幾度夢に見たよりも鮮やかに、そして、激しくユーナの心を震わせた。
誰もいないはずの教会の中、確かに彼はそこにいる。
「お久しぶりです、……ユーナ」
「……」
目の前がちかちかする。
まさか、そんな、嘘だ。
「教会に入った時、あのクラヴィディアの旋律が聞こえてきて、信じられない思いでした」
彼の言葉がうまく耳に入ってこない。
「でも、幻ではなかった。旋律も、――あなた自身も」
アシュートが一歩こちらへ踏み出す。
ユーナはふらりと立ち上がったが、それ以上は固まったように動けなかった。
「どうして、ここに……」
「あなたに会うために。ただその一心で、やって来ました」
「でも、どうやって」
「ライナス殿から、あなたの居場所を教えてもらったのです。彼はあなたの名前を知ってから、全て調べておいたようなので」
懐かしい声だ。ずっとずっと、もう一度聞きたいと思っていた。
アシュートの一声一声に心が大きく揺さぶられる。泣きそうだ、とユーナは唇を噛んだ。
「――ユーナ。本当に、あなたなのですね」
アシュートは、一言ずつ区切るようにゆっくりと問いかけた。まるで、むやみに手を伸ばせば消え失せてしまう幻影を前にしている、とでもいうように。
夢じゃないんだ。
本物のアシュートなんだ。
ああ、信じられない。
「本当に、あなたに会えた。すみません、なんと言ったらいいのか。まだ少し、混乱している」
「私……」
ユーナこそ、言葉がなにも出てこなかった。
目の前の光景を受け止めることに精一杯で、ただただその場に立ちつくしている。
それでも、ようやく頭がこの状況を理解し始めた。
(アシュートが来てくれた。私に、会いに)
嬉しい。あまりの喜びに、心が震えている。
――でも。
同時にユーナは、心細さも感じずにはいられなかった。
今、確かにアシュートと向き合っている。
第一神聖騎士であり、国中の尊敬と羨望を集める気高い人。その彼と、こんな小さな町の教会で、なにも持たない平凡な自分が二人きり。もちろん、アシュートが見目や地位で人を蔑むような人間ではないと分かっている。分かってはいるけれど。
「……あの、アシュート」
思わず気弱な声が漏れた。
「こんなところにいていいの? 王宮での仕事、忙しいんでしょう。色々あったって聞いてるよ」
卑屈に問いかけてしまう自分が情けなかった。せっかく来てくれたアシュートに、こんな言葉をかけたいわけではない。それなのに。
案の定、アシュートはどこか寂しげに瞳を伏せた。
「久しぶりの再会を、喜んではもらえませんか?」
「そんな、もちろん嬉しいよ。でも、びっくりしすぎて。アシュートと会えるだなんて、全然思ってなかったし。まさかアシュート自身がこの町に来てくれるなんて、想像できるわけがないよ。忙しいっていうのもそうだけど、今、国が一番大変な時期で、アシュートはそれを支えるほどの人で」
「ユーナ」
アシュートはユーナの言葉を遮るようにその名前を呼んだ。
視線が強く絡み合う。
「あなたに、触れても?」
ユーナは驚きのあまり呼吸をすることさえ忘れてしまった。わずかな空白の時間、その直後に、とんでもないと首を横に振ろうとしたが、それより先にアシュートの右手が伸びた。
頬にアシュートの指先が触れる。
壊れものに触るように、そっと、優しく。
「ずっと――あなたに会いたかった」
そのまま強い力で引き寄せられる。
気づけばユーナはアシュートの腕の中に抱きしめられていた。
「あなたが消えてしまってから、どうにかあなたに会うことだけを考え続けてきました。本当に色々なことがあり過ぎて、まるで身動きが取れなくて、でもあなたが隣にいなくて。おかしくなってしまいそうだった。それでも、とにかく、死に物狂いで仕事に取り組んできました。少しでも早く王宮の混乱が落ち着いて、あなたを迎えに行けるように」
「ア、アシュート」
「やはり私には、あなたのいない未来は考えられない」
瞬きをすることも忘れてしまったユーナの耳元に、更にアシュートは囁きかける。
「あの混乱の最中、一度はあなたを失いました。今やっと取り戻したあなたを、もう二度と、失いたくはありません」
なにか。
言わなくては。なにか、答えなくては。
分かっているのに、動けない。
「私と共に、王宮へ来てくれませんか」
――その時、言葉の代わりに、大粒の涙が零れ落ちた。
ユーナの涙が、アシュートの肩を濡らす。
一粒、そしてまた一粒。ぽろぽろと、とめどなく涙の雫が頬を伝った。
駄目だ、泣いている場合なんかじゃないのに。
私はいつだって、一番大事なところでこうして泣いている。
「ア、シュート」
「はい」
「私、もう、シェリアスティーナじゃないよ」
「はい」
「ただの、町娘なんだよ。もう、なにも持ってない」
「なにも要りません。あなたさえ隣にいてくれれば」
「アシュートがそう言ってくれても、周りの人が許さないよ」
「必ず受け入れさせてみせます」
「無理だ」
「いいえ、必ず」
アシュートはユーナを抱きしめる腕にますます力を込めた。
「確かに今すぐは難しいかもしれません。ですが、今、国は大きく変わろうとしている。この先、どんな未来だって切り開けるはずです」
ああ。
――分かっているのだ。
今この瞬間、こうして彼に抱きしめられていること自体が、とてつもない奇跡なのだと。
奇跡はずっとは続かない。
ほんの一瞬輝いて、またすぐに消えてしまう儚い存在。
だからこそ、こんなにも尊く、愛おしいものなのだ。
そう、分かっているはずだけれど。
(信じてみてもいいのかな)
奇跡は、未来を切り開くための希望の光なのだと。
儚く消えてしまっても、なにも残らないわけじゃない。その先に、果てない道が続いていると。
「ユーナ」
アシュートがもう一度、名前を呼んだ。
ユーナはアシュートの背中を強く抱きしめ返す。
やっぱり、どうしても。
私もあなたを、失えないよ――。
「どうか私と、結婚して下さい」
涙で全然前が見えなかった。
きっと顔は真っ赤な上に、ぐしゃぐしゃだ。
綺麗な泣き方なんて知らない。
だってこれが、――私なんだから。
ユーナは、嗚咽と共に、頷いた。
・ ・ ・
人の道というものは、なべて儚いものである。
どれほどの栄華を誇った億万長者であろうとも。
どれほどの羨望を集めた絶世の美女であろうとも。
どれほどの信頼を寄せられた神の使いであろうとも。
それが人である限り、死は平等に訪れる。
けれど、だからこそまた、人の道はまばゆく輝くものである。
奇跡とは、希望。希望とは、光。
歩みを止めず、顔を上げよ。
道の果てのその向こう側に、微かにまどろむ光が見える限り。
・ ・ ・
「ユーナさん見て下さい、このお菓子の山! イーニアス様とネイサン様からの差し入れです!」
「うわあ、美味しそう。でも、全部食べたら胸やけしそう……」
「せっかくだから頑張って制覇しましょうよ! 私、こういうの、本当に夢だったんです」
「ナシャ、ほどほどにしておきなさい。ユーナさんを困らせるものじゃありませんよ」
「ふふ、カーリンさんて、ユーナさんとナシャさんにとっての王宮でのお母さんみたいね」
「ミズレーさん、そんな恐れ多いことを……」
「もう、カーリンさんってば! 私はもうシェリアスティーナ様じゃないんですよ」
「も、申し訳ありません。理解しているつもりなんですけれど」
「それでユーナさん、聖女様としてではない王宮での暮らしには、もう慣れてきました?」
「うーん、そうですね。なんとか」
「王宮付きの薬剤師見習いとして、住み込みで働くなんてホント偉いわ」
「すごいですよね。そのための試験も難しいと聞いていますし」
「ミズレーさんもナシャもやめて下さいよっ。まだ単なる見習いなんですから」
「私も凄いと思いますが、早く正式な資格が取れるといいですね」
「ライナスが素晴らしい王宮付薬剤師の方を紹介してくれたので、その方について、色々教わっているんですけど。資格を取れるまでは、まだまだかかりそうです」
「真面目ねえ、ユーナさんは。資格なんて取らなくても、アシュート様に早く養ってもらってしまえばいいのに」
「ですよね、ミズレーさんの言う通りですよ。ほら、私、今アシュート様付きの侍女やらせてもらってるじゃないですか。アシュート様、すでに待ちきれないご様子で」
「ナ、ナシャッ! そういう問題じゃないのっ」
「ユーナさんの自立心は大変尊いものだと思います。大切なことですよ」
「カーリンさんが言うと重みがあるわぁ」
「でも確かに、資格を取られてからご結婚というお話でしたら、お早くされた方がよろしいでしょう。アシュート様よりもむしろ、国王様の方が楽しみにされてらっしゃると伺っていますし」
「カ、カーリンさんまでそんなこと言わないでくださいよ……」
「そういえば、ジークレスト様も仰ってました。あいつらこの期に及んでなにをグダグダやってんだ! って」
「ああ、言いそうね、いかにも。……ということで、それは私たちも同じ気持ちなんですよ? ユーナさん」
「う、う。その。頑張ります」
「一言でまとめられちゃったわ」
「あ、そ、そうだ! 私そろそろ行かないと」
「あら、どちらへ?」
「神官塔に。シェリアスティーナ様と少しお話をする約束してるんです」
「まあ。面会できるんですか、シェリアスティーナ様と」
「部屋の扉越しに、会話だけなので顔は見えませんけど。でも、とても楽しいですよ」
「あ、じゃあ、よかったらこのお菓子少しおすそ分けを……」
「これ、ナシャ。聖女様にお菓子の差し入れだなんて」
「ううん、きっと喜んでもらえるよ。少し持たせてもらうね」
「いいのでしょうか? ……では、シェリアスティーナ様によろしくお伝えくださいませ」
「また近いうちに、こうやって医療所でお茶しましょうね」
「ユーナさん、いってらっしゃい」
「うん、いってきます!」
〜終〜