02.
いや、確かに懐かしいとは言ったけどね!?
私は憤然たる思いでその場に立ちつくしていた。
ここはどこだ。一体何事が起こったのだ。……まあ、大体想像はついているのだが。
私は今、一人きりで、うら寂しい雑木林のど真ん中に佇んでいる。
それはちょうど学校の夏期講習の帰り道、長い長い下り坂を無言で下っていた時に襲いかかった。
急激な目まいと激しい吐き気。身体中の力という力が絞りとられていく感覚。いずれもかつて経験したことのある症状だ。とはいえ、あまりの苦しさに、私はそんな体調の異変を冷静に受け止めることができなかった。声も出せずその場にうずくまり、ぐわんぐわんと揺れる頭を抱え込む。
苦しい、誰か助けて。
両手がしびれたように動かなくなる。体が固まり、そのまま意識を手放しそうにさえなった。しかし完全に気を失うその直前、すうっとそよ風にさらわれていくように、全ての症状が消えていった。これも、以前経験した通り。
……恐る恐る目を開けて、私はゆっくりと立ち上がった。
まだ目の前がちかちかと点滅している。何も見えない。だが、それもやがて治まっていく。
程なくして私は落ち着きを取り戻し、ゆっくりと辺りを見渡してみた。
つい今しがた目にしていた風景の全てが、すっかり失われている。代わりに広がるのは、鬱蒼とした背の高い木々と、およそ人の手の入った様子のない低い茂みたち。夏の日差しに焼けたアスファルトの坂道は、どこにも見えない。
突然の出来事に、私の心臓は大きく波打った。
けれど同時に、またか、という諦めのようなものが胸に沸き起こる。
これはあれか。もしかしなくとも、あれだ。
――異世界召喚というやつなのでは。
あっさりとその結論に達した私は、それでもそれなりに混乱していた。
これが一年半前に経験した異世界召喚と同じだとすれば、あの時とはあまりにも状況が違いすぎている。
まず当時は、呼び出された先は王宮の魔法陣の上だった。私を呼び出した召喚師を始めとして、たくさんの人間が魔法陣を取り囲み、私の出現を見守っていたものである。
なのに今は、私一人きり。
それに。
私は自らの肩にかかったセミロングの髪に目を落とした。
何の変哲もないストレートの黒髪。でも、これもおかしい。
なぜなら、以前召喚された際には、私の黒髪は眩いほどの金髪に変化していたのだから。あの時は、神の加護だかなんだかで、髪の色も変われば瞳の色も神々しく変わっていた。その上、自分でも分かるほどに、何か不思議な力が身体中に満ち満ちていたのである。
でも今は、何も感じられない。恐らくは瞳の色もただの黒目だろう。全くもって、普通の女子高生の
「……」
嫌な予感しかしない。
それでも私は、すぐさま意識を切り替えた。とにかく状況を把握することが先決だ。前回の召喚の時ととてもよく似たこの状況だけれど、それでいて全く違う立場に置かれているのかもしれない。分からない。分からないけれど。
少なくとも、こんなところで立ちつくしていたところで誰かが助けに来てくれる可能性は極めて低そうだ。まずは歩こう。そして人里を探そう。
林を抜けるのには苦労した。
後から知ったところでは、それほど大きな林ではなかったようだけれど、方向感覚の掴めない中で闇雲に歩いていたのだから、簡単には出られなくても当然だっただろう。
息を切らせて歩きながら、ようやく視界が開けた時にはほっとした。
先に広がるのはなだらかな丘陵とその向こうの小さな町。そして更にその奥に、一際大きな都市と――王宮だ。
間違いない。私はこの風景を、知っている。
かつて訪れた異世界の風景。遠い遠いあの王宮に、私は一年滞在していんだ。
・ ・ ・ ・
「ハルちゃん、これ三番さんに運んでちょうだい!」
「はあい!」
おかみさんの力強い声に、私も思いきり返事を投げた。
今はこの定食屋が混み合うピークの時間帯だ。
全ての席は、来店客ですっかり埋め尽くされている。そのお客さん達の明るく陽気な話し声のおかげで、こちらも大声を出さねば互いの声が聞こえないのである。
元の世界でウェイトレスのアルバイト経験があってよかった。
混雑した席の合間をすいすいと通りぬけ、料理をお客さんに届けがてら、空いたお皿を山と積んで厨房へ運び入れる。もたもたしていたらこのお店は回らない。私が来てから料理の提供が早くなったと褒められることが多いから、俄然やる気がでるというものだ。
そうでなくても、この定食屋のオーナー夫婦には頭が上がらない。
身元不明な怪しい私を住み込み店員として雇い入れてくれたのは、今から三週間ほど前のことだ。その二日前に、私はこの世界にやってきた。逆に言えば、ここへ来てから二日の間は行く先もなく途方に暮れてさまよい続けていたのである。
もちろん初めは、王宮の見知った人達へ助けを求めに行く気満々だった。
前回ここへ召喚された時は、王宮のお偉い方々に手厚く遇されて、まるでお姫様のような生活を送っていた私である。その時の巫女が再びこの世界へやってきたと彼らが知れば、きっと一も二もなく受け入れてくれると信じていた。別に前回同様姫レベルの歓待を求めていたわけじゃない。とにかく死なない程度の衣食住を提供してくれれば御の字だと思っていたのだ。
が。
甘かった。今の自分の立ち位置というものを完全に失念していた。
どこからどう見たってその辺りの平民その一に過ぎない、冴えない小娘。それが今の――いや、本来の私だ。この世界には黒髪の人間などたくさんいるし、日本人風の彫りの浅い顔立ちもそれほど珍しくない。私は、どこにでもいる容姿の人間なのである。
それが突然王宮に出向いていって、国の重鎮に会わせてくれと言ったところで、よもやそんなめでたい申し出が受け入れられるべくもない。当然ながら、私は職務に忠実な門兵により、問答無用で即刻王宮入り口から放り出されてしまったわけだ。文字通りの門前払いというやつである。
それでもかなり食い下がった方だと思う。こちらとて死活問題だったのだ、そう簡単に引き下がるわけにもいかない。どうにか私の話を聞いてくれ、嘘は言わない、頭がおかしいわけでもない、私は正真正銘正気でここに来ているのだ、と。
しかしいかんせん説得力がなさすぎた。かつてとは見た目も違えば神力も失い、私が巫女であったと証明できる類のものは一切ない。せめて下級兵士や使用人に知人がいれば話も通ったかもしれないが、私が知るのは国を支える超一級の要人達ばかりであり、王宮の門兵にさえ可哀想な目で見られている今の私が彼らにお目通り叶うはずもなかったのだった。
最終的に、諦めざるを得なかった。
それで私はとぼとぼと街中へと戻ってきた。
ひもじい。足が痛い。汗で体がべとつく。今すぐ熱いシャワーを浴びて、ふかふかのベッドに飛び込みたい。そんな願いもむなしく、その日の夜は道端で膝を抱えて過ごすことになってしまった。
その一晩で、私は否応なく考えさせられた。
私はたぶん、望まれてこの地に再び召喚されたわけじゃない。
誰にも歓迎されていない何かの手違い、それが今回の異世界召喚に違いないのだ。
でなければ、あんな雑木林の中に一人で放り出されるはずがない。
もし単純に着地場所を誤ってしまっただけだったのだとしたら、王宮の人員総出で私を探し回っているはずである。でも、私が訪れた王宮は、全くもって平穏そのもので――今日も昨日と同じ平和な一日が続いていると言わんばかりの穏やかな空気に満ちあふれていた。
となれば、だ。
何の意味もなく元巫女である私がこの世界に舞い戻ってきたなどと、逆に誰にも知られない方がいいのではないか。私は冷たい石畳の上で膝を抱えながら、そう考えた。
なにせ、ほんの一年半前に、国を挙げて大々的に元の世界へ送り帰されたばかりなのである。言ってもたったの一年半だからね? それがひょっこり、呼んでもいないのに戻ってきただなんて……しかもただの小娘にランクダウン済みである……あああ、やっぱり絶対誰にも知られたくない。
それに私は、もう一つやらかしてしまっているのだ。
私の護衛騎士に、投げつけるような告白をして逃げ帰ってきたことはまだ記憶に新しい。
あわよくば、そう、もし想いを受け入れてもらえたなら、こちらに居を移してもいいだなんて浅ましい期待をこっそりと抱いたりしちゃって。まあ、当の護衛騎士によって、あまりにもあっさりとその想いは却下されたわけなんですけどね。
だからやっぱり、絶対に会いたくはない。
特に、ノエル――私のかつての護衛騎士には、絶対に。