03.

 定食屋のご主人とその奥さんが私を迎え入れてくれたのは僥倖だった。

 もうね、餓死寸前でしたからね。
 こちらの世界のお金などビタ一文所持していなかったは私は、当然食にもありつけなかった。
 一応、こちらへ召喚された時に学校の鞄は持っていたけれど、中に入っていたのはペットボトルの水が一本に、飴玉が二つ。たったのそれだけだったのである。そんな状況で二日間を耐え抜いたのだから、私も意外といい根性をしていると思う。

 それでも最後には、もうほとんど無意識で行動していた。
 定食屋の扉から漏れる美味しそうな食事の匂いにつられて、私はふらふらと入口まで近寄っていったらしいのだ。とうとう力尽き、がくりとうなだれた私。そこを、ここのご主人が見つけてくれたというわけである。

 単なる女子高生の私ではあるが、身に着けていた制服が、ご主人の“よい判断”の手助けになった。ご主人は私を行き倒れの乞食とは判断せず、使用人とはぐれたいいところのお嬢様だと考えてくれたのである。

 ご主人は私を店の中に招き入れ、温かい食事をご馳走してくれた。
 お金を持っていないことは最初に告げたけれど、それでも構わないと言ってくれた。

 この時食べたご飯は、十八年という人生の中で一番おいしいご飯だったと断言できる。
 人の優しさが痛いほど身にしみた。泣きながら食事をしたのは、これが初めてのことだった。

 こんな優しいご主人達に偽りの身の上を語るというのは気が引けた。しかし、異世界からやってきた人間ですだなんて、そんなふざけた発言はもっとできない――例えそれが真実であろうとも。
 私は仕方なく、この町に住んでいる親戚を頼って田舎から出てきたが、親戚が引っ越していていなかったというような曖昧な作り話を彼らに聞かせた。人のいいご主人達はその話をあらかた信じてくれて、私はますます自己嫌悪に陥った。

 とまあ、その後も色々あったのだけれど、最終的には定食屋の住み込み店員として私は彼らに迎え入れられたわけである。
 受けたご恩は精一杯働いてお返しいたします。ということで、昼夜問わず懸命に働きまわっている今日この頃だ。
 とは言っても、元の世界へ戻ることを諦めたわけじゃない。

 いつかきっと、私は帰る。

 前回は巫女としての使命を全うしたら、盛大な送別パーティーと共に国が責任をもって私を元の世界に送り返してくれた。が、今回は与えられた使命とやらはないようなので、放っておけばいつ元の世界へ帰れるかも分からない。
 そう、自ら動かねばならないのだ。
 以前の知り合いに見つかって話がややこしくなる前に、どうにかしてここから帰る方法を見つけてみせる。
 お店へ恩返ししながら、帰る方法を見つける。私の目標は定まった。

・   ・   ・   ・

「ハルカー、酒持ってきてくれ、酒!」
「おーいこっちにも!」
「追加の注文頼んでもいいかー!」

「はーい、ただいま!」

 とうに太陽は山の向こうに姿を隠し、すっかり闇夜も深まったいつもの晩。
 騒がしいお客達に右から左から声をかけられ、私は狭い店内をかけずり回っていた。

 この定食屋の客層の八割は、むさいオッサン達である。しかもいやに屈強なタイプが多い。というのも、ここは王宮所属兵達ご用達の飯屋だからだった。
 王宮の人間に顔バレしたくない私としてはやや危ない職場ではあるのだが、下級兵士しかやってこないような庶民派のこのお店には、巫女だった私を知る人が訪れる可能性はほぼゼロと見ていいだろう。
 実際、これまで見知った顔がやってきたことは一度もない。万万が一かつての知り合いが訪れても、今の私ならばきっと気付かれないであろうし。
 いずれにせよ、私は他に行くところがない。多少のリスクを背負うことになっても、ここを出ていくわけにはいかないのだ。

「ハルカちゃん、今度のウェドの日はこの店やってるのかい?」
「え? ええ。うちの定休日はサルスの日だけですから」
 常連客の一人に突然問いかけられて、私は首をひねった。いつも来ているお得意さんなら、定休日なんてよく承知しているはずなのに。
 そんな私の疑問を察したのか、彼は「違う違う」と手を振った。
「忘れてるのか。今度のウェドの日は、祝神祭だろう? 大抵の店は一日閉めるみたいだが」
「あ」
 言われてようやく思い当たった。

 祝神祭――年に一度、神への感謝を表すお祭りだ。
 国を挙げての一大イベントであり、かつての私は、巫女として祭のハイライトであるパレードに参加までしていたのだった。まあ、それも二年くらい前の話だし。こっちの世界の生活にはだいぶブランクがあったから、忘れていたって仕方がない。

「そっかあ。そんな時期なんですね」
 すっとぼけている私を見かねたのか、厨房からおかみさんが顔を出した。
「すみません、うちもその日はお休みさせて頂くんですよ」
「なんだ、残念だな。せっかくだから、ここで昼飯食ってちょっくら行進でも見物するかと思ってたんだがねえ」
 眉を八の字に曲げて、彼は呟いた。

 うーん、パレードかあ。私は以前参加した祭の風景を思い返した。確かに、音楽隊が演奏したり、皆で花びらを撒いたりして、すごく綺麗だったもんな。普段は街に出てこない王宮のお偉方もパレードに参加するから、一般の人達にとっても楽しみなイベントに違いない。

(お偉方……)
 ふと、私は空いたテーブルを片付ける手を止めた。

 ――出るんだろうか、彼も。今年の祝神祭の、パレードに。

(いやいやいや。私は関係ないし)
 出ようが出まいが構わないではないか。そう思い直して、慌ててテーブル拭きに戻る。それでも、とりとめなく思考が流れてしまうのはどうしようもない。

 ――恐らく彼も、参加するんだろうな。

 二年前は、巫女だった私と一緒に彼も行進した。彼は私の護衛騎士だったのだから、当然と言えば当然だ。
 今回はといえば、私という護衛対象こそいないものの、パレード全体の警護も兼ねて引っ張り出されることになるんじゃなかろうか。身分もあるし、見た目もいいから、民衆に見栄を張りたい王室が彼を引っ込めておくはずがない。

「ハルカも祭に行くんだろう?」
 別の常連客が、明るい声で問いかけてきた。
「うーん、そう、ですね。時間があれば……」
 つい、歯切れの悪い私の返事をしてしまった。そのせいで、おかみさんはあらぬ勘違いをしたらしい。慌てた様子で厨房から飛び出してきた。
「ハルちゃん、いつも頑張ってくれてるんだし、せっかくのお祭りあんたも楽しんでらっしゃいな! 少ないけどお小遣いも用意してるんだよ。余計なお世話かもしれないけど」
「あ、いや、すみませんおかみさん、そんなつもりじゃ。それにそんなの、悪いですよ!」
「若い娘が、変なところで遠慮すんなって。ありがたく甘えときなよ」
「そうそう、街に出りゃいい出会いもあるかもしれねえぞ?」
 何とも無責任なおっさんどもの茶々が入る。でも、もともとお金のことを気にしているわけじゃないのに、おかみさん達に申し訳なさすぎる! それに、出会いなんてこの世界では一切合切求めてないってば。どころか、会いたいようで会いたくない、複雑な心境の相手がパレードにやってくるかもしれないんですよ――なんて、素直に言えるはずもないが。

「俺も、非番だったら絶対に行進を見に行くのになあ。なんたって、あの噂のアルディナ様が登場するんだろ? 一目でいいから見てみたいよ」
「ああ、噂では、すごい美人らしいな」
「アルディナ様に会ったことのある教会の神父が言ってたぜ。あの方は神の化身だ、巫女様の後任にこれ以上の方はいない! って」
 店の一角、お客同士で盛り上がり始める。聞き捨てるにはあまりに気になる単語を耳に拾ってしまい、私は思わずそちらを振り返った。
「ハルカも興味ある? アルディナ様、同じ女なら憧れるだろ」
 目ざとくも私の視線に気づいた一人が、茶化すように問いかけた。
 でも、私にとっては、「アルディナ様」とやらの存在は初耳だ。
「ええっと、アルディナ様って、どなたでしたっけ……?」
 おずおずと問いかけると、店中の空気が凍りついてしまった。うわ、そんなにおかしな質問をしたのだろうか。でもでも、私がこっちで過ごしていた時には、アルディナ様なんて有名人はいなかったはずだし。うん、それは間違いない。

「国が始まって以来の稀有な神力をお持ちの、神官アルディナ様だよ。おいおい、本気で知らないっていうのか?」
「一年半前に異国から来た巫女様が帰られてから、その後任選びで大騒ぎだったじゃないか」
「でも結局は、ほぼ満場一致で、アルディナ様が後継に選ばれたって話だよな」
「前の巫女様がなきあとも国の平和が保たれているのは、きっとアルディナ様のお陰だよなあ」

 男達はそれぞれ恍惚とした表情で好き勝手に語り散らしている。
 でも、そうか、私の後任とやらがアルディナ様というわけなんだ。てっきり異世界から来た人間にしか巫女は務まらないのと思っていたけれど、そういう縛りは特にないらしい。それなら、私のことを異世界から呼び出したりせず、最初から自分の国の中で好きなようにやってくれればよかったのに。

「実はさ、俺、ちょっと前にお忍びで教会に来てたアルディナ様に会ったことあるんだ」
「ええっ、本当か!?」
「ああ。もう信じられないくらい華奢で白くて、美しくて……。天使みたいだったな」
「祝福のお言葉をもらえたのか?」
「まさか、俺なんかが。子供や老人が数人声を掛けられた程度さ。そもそも、アルディナ様には護衛がぴったりくっついていて、一般人がむやみに近寄れるような雰囲気じゃなかったしな」

「その護衛って、どんな人でした?」

 我慢ならずに私は口を挟んでしまった。
 その声が思った以上に必死な響きを伴っていたことに、私自身が驚いた。周りの酔っ払い達は、私の声音の変化なんぞに全く気がつかなかったようだけれど。
「ん? あれだよ。前の巫女様の時も護衛だったあの騎士。名前は何だったっけかな?」
「……ノエル……?」
 呟いた私の声に応え、周りが頷いた。
「ああー、そうそう、そんな名前だ。なんだよハルカ、お前男の方には興味あるってか。ま、そりゃそうか! 女よりは男に興味あるわな」
「ハルもお年頃だからな。実際、あの騎士は街の女どもに人気があるらしい」
「きっとその騎士も、アルディナ様の護衛ってんなら行列に参加すんだろうな」
 あれやこれやと、客達の話はその後も尽きない様子だった。
 けれど私はその後の会話をほとんど覚えていない。よく分からない焦燥感のようなものに襲われて、それどころじゃなかったからだ。

 祭には行かない方がいい。
 そう思いつつも、きっと行かずにはいられないのだろうと、半ば諦めた気持ちで私は溜め息をついた。