10.
翌日、身支度を整えた私は、真っ直ぐ王宮へと向かった。
訓練場へ行くだけならば既に顔パス扱いの私だが、今日は違う。
わざわざ兵士の一人が入り口から魔術研究所まで送ってくれる手はずになっていたのだ。本当は道順ならよく知っているんだけどな〜、なんて頭では考えながら、私は大人しく兵士の後について歩き始めた。
王宮の玄関は、高い高い吹き抜けになっている。
天上を見上げれば、緻密な彫刻がいくつもの円を作っているのが目に入った。しかしそれらを長く見物することはできない。あんまり天井が高すぎるせいで、すぐに首が痛くなってしまうからだ。
たくさんの彫刻に混じって、丸い天窓もいくつか建物をくり抜いている。そこから差し込む光は、まるでスポットライトのように大理石の床を照らしていた。
――ようこそ王宮へ。ここではあなたが主役ですよ。
初めてこの場に立った時、天からそんな声が聞こえてきたような錯覚に陥ったものだ。もちろん今は、そんな錯覚なんて起こさない。ただほろ苦い懐かしさを覚えるばかりである。
この玄関ホールからは、五本の回廊が伸びている。
真ん中の回廊は一際大きく立派で、王宮の心臓部へと続いている。他の通路は、各施設へ。ちなみに今日これから私が向かう魔術研究所は、一番左の通路と繋がっている。繋がっているとは言っても、かなりの僻地に建っているために、この玄関からならば、いくつもの廊下を渡り歩かねばならないのだが。
硬質な廊下に、私の足音が響く。
ああ、何だか本当に変な感じ。私が今再び、こうして王宮の中を歩いているなんて。
とことん、人生何が起こるか分からないものである。
「着いたぞ、ここだ」
やがて、前を行く兵士が立ち止まった。
渡り廊下の行き止まりにそびえているのは、おどろおどろし――くもない、ごく普通の扉である。兵士がその扉についているノッカーを叩くと、すぐに中から男の人の声が返ってきた。
「はーい、ただ今」
扉の向こうから顔を見せたのは、強い癖のある茶色い髪が印象的な、二十代前半と見える若者である。いかにも人畜無害そうな、のんびりとした顔立ちだ。
「どうも、お疲れ様です」
「通達していた弁当売りの娘だ。後は頼むぞ」
「ああ、はいはい。わざわざどうもありがとう。さ、入って」
さっさと案内の兵士は帰ってしまったので、私は若者に促されるまま研究所の中へと足を踏み入れた。うわあ、うわあ、懐かしい懐かしい。
中はやはり、爽やかで清々しい雰囲気とは言い難かった。
前回一度だけ訪れた時と、全っ然変わっていないなあ。埃っぽくて、何だかよく分からない匂いが漂っているこの感じ。ちょっとクセになりそうだ。所どころによく分からない置きものや変な機具なんかが置いてあるし、面白い。
「その籠、重そうだね。僕が持とうか?」
「いえ、慣れてますので大丈夫です。ありがとうございます」
「そっか。部屋はすぐそこだから安心して」
このお兄さん、こんなにほわほわとしているのに、魔術師なんだよなあ。
私はこっそりと出迎えの魔術師を観察した。
私の中にあった魔術師のイメージと全然違うというか、何というか。まあ、私の中の「魔術師のイメージ」っていうのは、たった一人の傲慢魔術師が作り上げたようなものなんですけどね。あの人が特殊なのか、このお兄さんが特殊なのか。
「ここだよ。散らかっていて恥ずかしいんだけど」
廊下の突き当たりより少し手前の扉を軽くノックしたお兄さんは、返事を待たず、無造作に扉を開けた。
「入ります、お店の方が昼食を持ってきてくれましたよ」
お兄さんの背中に続いて、私も部屋の中へ。
うわ、本当にたくさんのものでごっちゃごちゃ。私が前に挨拶に来た時は、ここまでじゃなかったぞ。あの時は、巫女様に気を遣って一応片付けていたのかな。
籠を担ぐ肩紐から頭を抜きつつ、私はささっと部屋の中を観察した。うーん、それにしても、ある意味絵になってしまいそうなほどの散らかりっぷり。
呆れが顔に出ないように気をつけて、走らせていた視線を正面に戻し。
部屋の奥、古ぼけたソファに悠々と腰を下ろす男を視界に捉えた途端――。
「ぎゃあっ!!!」
私は、手にしていた籠を、取り落とした。
・ ・ ・ ・
「ちょっとちょっと、どうしたの。大丈夫!?」
お兄さんは目を見開きつつ、私の足元に落とされた籠を抱え上げた。
あ、大丈夫か心配だったのは弁当の方ですね。
いや、そんなことはどうでもいい。
私はくらくらと目まいを起こしながらも、何とか平静を取り戻そうとした。落ち着け、落ち着け私。ああ、でもやっぱ無理だ。どうしようホント混乱してる。どうしよう。
「何事だ」
ソファに座った男が怪訝な顔をこちらに向けた。
ぎゃっ、こっち見ないでえ!
思わず顔を逸らしてから、失敗だったと後悔した。
駄目だ。この人、こういう人の細かい動作に目ざといからな。下手したら今のでバレてしまったかもしれない。どうだろう、まだ大丈夫か。
この男――オルディス氏は、私のかつての知り合いだ。
知り合いというか、魔術の先生だった。
私の中の「嫌な魔術師像」のモデルとなったのは、何を隠そうこの男だ。
もともと貴族の出身だったのが、その身分を嫌い、家を捨てた。そしてうらぶれた研究所で魔術の研究に没頭したところ、その方面で様々な偉業を達成し、結局貴族の頃と同じくらいの地位を与えられてしまったという、よく分からない経歴の持ち主である。
年齢は、三十をいくつか過ぎたくらいだと思う。女の私よりも艶やかで長い黒髪を一つに結わいており、流し眼が年の割にとても色っぽい、いわゆる美形である。そんな彼に全然ときめくことができなかったのは、
護衛だったノエルともしょっちゅう喧嘩していた私だけれども、あっちはまだ、私を「放っておけないドジな妹分」くらいに見てくれていたと思う。が、この人は、「どうしようもないバカな教え子」みたいな感じで私を認識していたに違いないのだ。先生と生徒という間柄であるくせに、全くもって打ち解けられなかった私達なのである。
「あ、弁当は無事だったみたいですよ」
お兄さん、空気読んで下さい。
むしろ、逆にこの空気をぶち壊してくれた方がありがたいのか。
「お嬢さんの方は大丈夫?」
「えと、は、はい。すみません、急に腕がつってしまって……」
我ながら苦しい言い訳。だが仕方がない。
「それは大変だ。帰りに医務室へ寄っていく?」
「いえいえっ、平気です。もう治りましたから」
「そう?」
私と受け答えをしながらも、お兄さんは籠からどんどん弁当を取り出していく。
今回はこの籠の中身全てを買い取ってくれるということだった。他の魔術師達の姿は見えないが、恐らくそのうちふらりとやって来て食べていくはず、……らしい。
弁当の代金はお兄さんからまとめてもらったから、構わないんだけど。でもこれ、例え金額をちょろまかされていたって、今の私じゃ気づけそうにないよ。まだオルディスさんと遭遇してしまった動揺が治まらない。
「美味しそうだなあ。今日はこんなところまでありがとう。あ、帰りも送っていくね。ここ、分かりづらい場所にあるし」
「だ、大丈夫です。一人でも――」
「――私が送っていこう」
それまで黙っていたオルディスさんが、低い声で告げた。
ぎょっとしたのは私だけではなく、魔術師のお兄さんも同じだ。
「え、オルディス様が!? いえ、まさかそんなことをさせるわけには……」
「私も、そろそろ戻ろうと思っていたところだ。構わん」
いやいやいやいや!!
構います! 私がめちゃくちゃ構います!!
声にならない声で悲鳴を上げたが、もちろん相手には聞こえていない。
どうなんだこれ、バレているのか。それともたまたまの親切心? 絶対そんなわけがない。
「行くぞ」
オルディスさんは、鋭い瞳で私を射抜いた。
もはや蛇に睨まれた蛙である。
私は全てを諦めた。
彼はゆっくりと立ち上がると、私の横を通り過ぎ、無造作に部屋の扉を開いた。来い、と再び視線で促されて、私はその後に続く。
扉を
オルディスさんは魔術を使った。
扉の向こうは古ぼけた廊下だったはずなのに、今、私たちは殺風景な小さな部屋にいるのである。つまり、私たち二人は、この人が作り上げた幻の部屋の中で、外界と隔離されてしまったということだ。曲がりなりにも彼の生徒を一年間やってきたのだから、そのくらいのことは分かってしまった。
「さて」
オルディスさんは両腕を組み、背中を部屋の壁に預けた。
「どういうことか説明してもらおうか、ハルーティア」