11.
ハルーティア、というのは、この世界で巫女をやっていた時の私の名前だ。
本名の「ハルカ」というのがどちらかというと男の名前のような響きらしく、巫女には相応しくないということで、この世界に来てすぐに「ハルーティア」という名前を与えられたのである。どこからどう見ても日本人の私が、ハルーティア。恥ずかしすぎて、自らその名を名乗ったことは一度もない。当時も、なるべくは「巫女様」と呼んでもらうように周りにはお願いしていた。だから、王宮の大抵の人は――このオルディスさんも――私の本名を知らない。
とまあ、名前のことはどうでもいいのだ。
たった今しがたのオルディスさんの台詞で、彼が完全に私の正体を見抜いていることが分かってしまった。そちらの方がよほどの一大事である。ううう、この世界で一番苦手といってもいい人に、いの一番に正体がバレてしまうとは。
「以前とはまるで見た目も違うし、そもそも神気が全くない。本人か疑わしいところだが……いや、やはり本人か。わずかに“名残”がある」
独り言なのか、私に問いかけているのか。
分からないので、私は憮然とした表情でだんまりを決め込んだ。
全くもう、訳が分からないのはこちらの方だ。
なぜ貴族にも等しい地位と権力をお持ちのあなたが、こんなうらぶれた研究所にいらしたんですか。聞いてないですよ。
そんな思いが相手に伝わってしまったらしい。
「私は、定期的に研究所に顔を出し、部下の仕事内容を確認しているのだ」
と、ご丁寧にご説明を頂いてしまった。
「一体いつ、この世界に戻って来た?」
「……二か月くらい前、です」
「二か月?」
年中無休で鉄面皮の彼にしては珍しく、ありありと驚きの色がその表情に浮かんだ。それでちょっと溜飲の下がった私は、もう少しくらい詳しく事情を教えてあげてもいいかと思い直した。
「気がついたら、王宮の外れの雑木林にいたんです」
「まさか」
まさかと言われても、真実なのだから仕方がない。
「それが本当だとして、今日までどうやってやりすごしてきたんだ」
「街の定食屋さんに拾ってもらいまして。そこで今も働いています。王宮へは、その定食屋で最近始めた弁当の歩き売りの一環でお邪魔したんですよ。こんな奥まで立ち入ったのは、こっちへ戻ってからは今日が初めてですけど」
「お前が? 街の定食屋? 弁当の売り歩き?」
ええい、いちいち復唱しなくていい!
むっとオルディスさんを睨みつけてやった私だったが、当の本人はそんな私の視線には一切動じず、逆に胡乱な眼差しをこちらへ向けてくる始末だ。やれやれ、仕方がない。やはり一から詳しく説明するしかないのか。
しかし、落ち着いて考えてみれば、ここで以前の知り合いに出会うことができたのは、逆にしめたものではないか。
はち合わせたのがあまりに苦手な相手だったためつい逃げ腰になってしまったが、これは当初の目標を達成したも同然だ。オルディスさんならば、召喚師のルーノのことも知っているのだし、オルディスさんに彼を呼んでもらえれば、例えば今日すぐにだって元の世界へ戻れることになる。
「ふうむ、事情はあらかた分かったが……。しかし、信じがたいな」
懇切丁寧に説明してあげた後で、この態度。
もう、信じられないというのなら、初めから説明を求めないでよ!
「いや、信じがたいと言ったのは、二度目の召喚云々の話ではない。お前が、市井の人間に混じって二か月も生活していたということだ」
「それってどういう意味ですか。私、別にお姫様じゃないし、元々は普通の人たちに混じってごく普通に生活していたんですから、不思議がるようなことじゃないと思うんですけど」
「その割に、ここに滞在していた当時は、護衛騎士殿にべったりと守ってもらって、それこそどこぞの姫君のごとく悠々自適に過ごしていたのではなかったか」
う、そこを突いてくるのか。
私は再び恨みがましい目でオルディスさんを
確かに私は、いつでもノエルを頼っていた。
困った時も、不安な時も、いつでもノエル。……それは褒められたことじゃなかったって、今では分かっている。でも、当時は私なりに一生懸命やってるつもりだったんだよね。
巫女としての礼儀作法から始まって、国の歴史や神話の数々、身に宿った神力の操り方、学ばなければならないことは山とあった。頑張れば頑張るほど、その山の高さに目まいがして、私は支えを求めてしまったんだ。そしてそんな私を支えてくれたのが、ノエルだった。
うーん、まあ、確かにどんな言い訳をしようと、甘ったれた小娘以外の何者でもないか。
比べて今は、巫女の時よりもずっと恵まれているのかもしれない。
誰にも必要とされていないけれど、代わりに、身の丈に合った努力を続ければ、それを認めてくれる人がいる。そして、平凡な私が平凡な私のままに過ごしていても、温かく迎え入れてくれる人がいるのだから。
「……いずれにせよ、面白い。まさかお前が、弁当を持って再び私の前に現れるとはな」
珍しいことに、オルディスさんが微かに笑った。
にやり、と口の端をわずかに歪める程度の、爽やかさの欠片も見えない笑い方だ。だが、笑顔は笑顔。一瞬見間違いかと思ってしまったが、どうやらそんなことはないようだ。うわあ、珍しいものを見てしまった!
「それで、どうするんだ。その定食屋の養子にでもなるのか」
「違います! 私、元の世界に帰りたいんです!」
やっと来た、本題、本題!
私は噛みつかんばかりの勢いでオルディスさんに食ってかかった。
「召喚師のルーノさんなら、私を元の世界に帰すことができると思うんです。だからオルディスさん、お願いします。私をルーノさんに合わせて下さい!」
「――駄目だ」
私の渾身のお願いは、一秒と間を置かずあっさりと却下された。
もちろん私は引き下がれない。
「今更そんな意地悪を言わないでくださいよ! ただルーノさんに一本連絡を入れてくれるだけでいいんです。そうしたら私、後は自分でルーノさんにお願いしてみますから!」
「別に意地悪で言っているわけではない。あいつは今、技術指導のために他国へ長期出張中なのだ。そうだな、あと半年は戻って来ないか」
え……えーー!!!!
技術指導の長期出張って何。召喚師って技術屋扱いなの!?
「そんな……、ルーノさんだけが頼りだったのに」
私はよろよろと床にへたり込んだ。そんな私に向けるオルディスさんの眼差しは冷ややかだ。
「そもそも、ルーノがいたからといって元の世界へ戻れたとは思わないがな。元々召喚術というのは、原則として、召喚した人間でなければ帰すことはできない。お前を呼んだのがあいつでない限りは、あいつにもどうしようもないはずだ」
「そうなの!?」
何でもアリかと思っていた召喚術、地味な縛りがあることが判明してしまった。
「え、じゃあ、誰に召喚されたでもなく自然と来ちゃった場合は、どうすれば!?」
半泣きで見上げたオルディスさんの表情が、ますます冷え込んだ。瞳に鋭い光が宿る。
「まずもって、そこから納得できん」
納得できないって、何が。
魔術師ってやつは、話に含みを持たせる上に掴みどころがない。はっきり要点だけ話してくれ。
「お前にも、巫女時代は散々講義をしてやっただろう。魔術というものは、理論と規則から成り立つものなのだと。もう忘れたか?」
忘れるはずがない。それこそ、魔術を習い始めた頃には、本当に耳にタコができるほど言いきかされた話である。
異世界から人間を召喚できてしまうような世界だから、魔術ってやつも、それこそファンタジー映画よろしく誰でも簡単に、念じるだけで発動できるものだと思っていた当時の私。それがオルディスさんにとってはあり得ない能天気な考えだったらしく、魔術というものがそもそもどういうものなのか、しっかりみっちりこってりと叩きこまれたものだった。
全ての魔術は、理論と規則から成り立つ――。
ああ、一年半ぶりに聞くフレーズだ。懐かしくて涙が出そう。
「召喚術も、魔術の延長線上にある。当然ながら、『偶然に』こちらへ召喚されるなどということはあり得ないのだ。すなわち、何者かが確かな意図と理論を以って、お前をこちらに呼び出したということになる」
「……」
にこりともしないオルディスさんの真面目な説明に、私は事の重大性を理解し始めた。
「では一体、何者が、今更お前をこの世界へ呼び寄せたのか?」
「……」
背筋に冷たいものが走った。
「言っておくが、王宮が公式にお前を再召喚しようとした記録はないぞ。誰かが内密に、何らかの意図でお前を呼びだした。当然そいつはお前の行方を探していることだろう。だが、探しているということをおくびにも出さない。きな臭い理由があるのは間違いないな」
「……」
何だか一気に、身の危険を感じるんですけど。
「この二か月、身を隠して過ごしていたのは、お前にしてはいい判断だったな。召喚者は密かにお前を見つけ出したいと思っているからこそ、大っぴらに捜索もできていない。もしお前が巫女であることを公言していたなら、あっという間に召喚者の手の中に落ちていたことだろう」
うわあ〜。恥を晒したくない一心で息を潜めていたけれど、それが功を奏したのか。
「じゃ、じゃあ、この先も気をつけないといけません、よね」
「当たり前だ」
オルディスさんは愛想の欠片もない調子で言い捨てた。
「どころか、お前が戻って来たと知ってしまった以上は、このまま街の定食屋に捨て置くわけにもいかんだろう。信用のおける人間に、お前の身の振りを相談せねば」
「えっ!?」
それ、どういうこと? 誰か偉い人に私のことを引きとってもらおうってこと!?
「信用のおける人って、誰ですか!?」
「それはこれから検討する。私とて今日この場で初めてお前の出戻りを知ったのだ、何の案も固まっていないに決まっているだろう」
出戻り言わないでください。
いやいや、それよりも。
例え、誰に相談することになろうとも。
あの定食屋を出るのは、決定事項ということなのか。
――そんな。
自分の身が危ないかもしれないっていう時に、言っていいことじゃないかもしれないけれど。
この世界にいる限り、あそこを離れるなんて全く考えてもみなかったし、考えられない。
だって、やっと弁当販売も流れに乗り始めたのだ。新しいアルバイトのセナさんも入って、皆で一丸となってお店を盛り立てていこうとしているまっ最中なのに。
あともう少しだけ、あの定食屋にいたい。
ご主人とおかみさんと、セナさんと、頑張りたい。
定食屋での毎日は、すごくすごく楽しいし、やりがいがある。常連のお客さんもいい人達ばかりで、あそこはとても温かい場所だ。
巫女をやっていた頃よりも、ずっとずっと、私らしく過ごせていると感じる。
だから、今はまだ、あの定食屋から離れたくなんてない。
「……オルディスさん、どうにか定食屋で生活を続けることはできませんか?」
「……」
無言の威圧感が凄まじい。
身をすくめて項垂れた私に、オルディスさんの呆れたような溜め息が落ちてきた。
「自分の身が狙われているというのに、よくも無防備に生活をしたいなどと言えるものだ」
はい、すみません。返す言葉もありません。
「……だが、先程も言った通り、これから今すぐに身の振りが決まる話でもない。ひとまずは、定食屋で生活を続けるほかないだろう。まあ、近い内に今後の方針を決めるつもりだがな。方針が決まり次第、弁当配達のついでにでも伝えてやる。王宮でお前を匿うか、定食屋に引き続き預けるの判断はその時までお預けだ」
――え? それはもしかして、定食屋で暮らすパターンもありってこと?
期待を込めた私の眼差しを、オルディスさんは鬱陶しそうに受け止めた。
「判断を下すのは私ではない。ただ、いかにも普通の庶民の小娘と見える今のお前を王宮側で匿うことで、逆に悪目立ちする可能性はあるからな。上がそう判断すれば、引き続き定食屋でということもあるかもしれん」
木を隠すなら森、というやつか。
うんうん、私もそちらに賛成だ。普通に過ごしていれば、私が元巫女だなんて絶対に分かるはずがない。……ないと思う。赤の他人であるナンパ男にもオルディスさんにもすぐに見抜かれてしまったけれど、きっと普通は、分からない……のではないだろうか。
「いずれにせよ、お前を秘密裏に呼びだした人間がいるということを念頭に置いて、今まで以上に注意深く過ごすことだ」
私は深く頷いた。
ああ、それにしても。
「……何だか大変なことになっちゃったな……」
溜め息と共に小さく呟いた声は、オルディスさんまで届いてしまったらしい。彼は冷めた瞳のまま私を見やった。
「元巫女のお前が絡んでいるのだからな。国を挙げての問題だ」
その言葉が、思いのほか胸に響く。
私はこの世界にいる限り、どうしたって「巫女」とは切り離せない存在であるらしい。
例えもはや、何の力も持たない小娘であろうとも。