12.
オルディスさんの作り出した異空間での密談は終わり、ようやく私はもといた廊下に開放された。
何の変哲もない古ぼけた廊下に、ほっと息が漏れる。
仕方なくとはいえ、私の身を案じてくれているオルディスさんには感謝しなければならない。だが、やはりどうも彼は苦手だ。二人きりだと息が詰まってしまう。
ああ、でも、そんなことよりも。
いよいよ
何かの弾みでこの世界へ戻って来てしまっただけなのだから、こっそり引き上げればいいと思っていたのに。まさか、誰かが意図的に私を呼びだした挙句、国を挙げての大問題に発展しようとしているだなんて、全くもって迷惑千万な話だ。
どうか、オルディスさんの言うように、「きな臭い」理由でこの世界に呼び出されたんじゃありませんように。……前向きな理由で呼び出されたとは、とても思えないけれど。
とにかく、今後はより一層自分の行動に気をつけなければ。
もし本当に誰かに狙われているのだとしたら、うかつなことはできない。前のように、誰かに守ってもらえる立場ではないのだ。自分の身は自分で守る、それが鉄則と肝に銘じよう。
「ところで、ウッドグレイ殿にはまだ会っていないのか?」
長い廊下、私の隣を歩いていたオルディスさんが思い出したように問いかけた。
私は硬い表情で首を横に振る。――ウッドグレイというのは、ノエルの家名だ。
「意外だな。まず最初に彼に頼るものかと思っていたが」
「頼りたくても頼れませんよ。今の私は単なる一市民なんだし、そもそもノエルに会う方法がない」
少し拗ねたような声になってしまって、私は慌てて顔を上げた。
「それに、今更ノエルに迷惑はかけられません。ノエルにはノエルのやるべきことがあるんでしょうから」
「あの女神官の護衛になったのだから、か」
オルディスさんは平坦な声で私の言葉の裏を言い当てた。
ううう、何もかもお見通しなんだもんなあ、これだからこの人は嫌だ。
「まあ、そうですね」
上げたはずの顔が、また下を向く。
「だが、向こうは無関心でいられるものかね? お前がこちらに戻ってきていると知ったなら――」
そう呟いたオルディスさんの声が、どこか違う方向へ飛んでいる。
おや、と思った私は、隣のオルディスさんを見上げ、彼が廊下の向こう側をまっすぐ見つめていることに気がついた。
「噂をすれば、だな」
「えっ!?」
私は弾かれたように背筋を伸ばし、オルディスさんの視線の先を追った。
確かに男性が一人、こちらにゆっくりと歩いてくるのが見える。まだ顔立ちまでははっきりしないが――私にも分かってしまった。あの亜麻色の短髪、背格好、歩き方、あれは間違いなく、私の護衛騎士だったノエルだ。
うおおおお、何で!?
「おそらく、私に用事があるのだろう」
オルディスさんが落ち着き払った声で説明してくれた。
いやいやいや。それこそ何でだ。この二人には当時から接点なんて全然なかったじゃないか。
って、そんなことより、どうしよう。ノエルがこっちに来る。
会いたくない!!
「会う気がないのなら、廊下を少し戻ったところにある扉から外に出ればいい。中庭からの帰り道は、お前も覚えているだろう」
ほとんど無意識にオルディスさんの背中に隠れてしまった私は、彼に言われるがまま、もと来た廊下を振り返った。確かに中庭へ通じる扉が見える。
「あの、じゃあ、私あそこから帰ります」
それしか言えなかった。
ノエルに私のことを話しておいてほしいのか、それとも誤魔化しておいてほしいのか。自分でもどうしたいのか全然分からない。分からないけれど、今は、とにかく会いたくない。その思いだけが私の足を動かした。
震えそうになる足で、中庭へ飛び出す。
足だけじゃなく、手まで震えてきた。何で、どうして? 私は肩から下げていた大きな籠をぎゅっと抱きかかえた。動揺しすぎでしょ、私。
はあ、と深呼吸をして自分を落ち着かせる。
とりあえず、ここから離れよう。距離があったし、そもそも今の姿の私じゃあ、ノエルの方ではこちらに気づいていないはずだ。けれど、念には念を入れた方がいい。
中庭は閑散としていた。
薔薇の咲いていない少し寂れたアーチに、最低限の手入れだけがされた草や低木。薔薇の季節ならば、この庭はとても華やかなものになるのだろう。今は、どこか寂しげな雰囲気がある。
しかし逆に、この寂寥感が私の気持ちを落ちつけてくれた。
ちらりと振り返ってみても、追いかけてくるような人の影は見えない。安心すると同時に、ちょっとだけ残念な気持ちもある。とことん勝手だ、私って。
いやしかし、今日は本当に盛り沢山な一日だった。
オルディスさんに会えただけでもびっくりだったというのに、まさかノエルにまで遭遇しかけてしまうとは。オルディスさん、ノエルは自分に用事があるんだろうって言っていたけれど、一体どんな用件だったのかな。私のことは、何か伝えるつもりなのかな。今度会った時には、その辺りがどうなったのかも一応確認しておかなければ。
ああ、でも本当に。
疲れた。
・ ・ ・ ・
情けないことに、翌日、私は熱を出して寝込んでしまった。
朝起きてすぐは、なんだかちょっとだるいなあ、というくらいだった。
ついでに、体の節々も痛い気がしていたけれど、でもそれは、昨日魔術研究所まで重い荷物を運んだせいで体が悲鳴を上げているのかな、程度に考えていた。
朝食のテーブルについて、美味しい朝ご飯をペロッと平らげた、その直後からだ。急激に具合が悪くなった。気持ち悪い。吐きそう。お手洗いに――と思ったら、体が重くて椅子から立ち上がるのも難しいではないか。
この辺りで、一緒に食事をとっていたご主人が私の異変に気がついた。すぐにおかみさんを呼んでくれて、ベッドまで連れて行かれ。ハルちゃん、あんたすごい熱があるじゃないの!――と大騒ぎになり――今に至る。
今、私は自室のベッドに横になりながら、ぼんやりと天井を見上げている。
先程から、眠ったり目が覚めたりの繰り返しだ。
うとうとしてもすぐに変な夢を見てしまって、余計に疲れてしまう。
はあ、この世界に来てから、初めて体調崩しちゃったなあ。
これまで順調に行きすぎたのだろうか。
軟弱な女子高生をやっている割には、私って根性あるじゃん! と、少し自己評価を上げていたんだけど。これで完全にガタ落ちだ。マイナスだ。
さすがに疲れが溜まっていたのだろうか。うん、それにきっと、昨日オルディスさんと会ったのも原因の一つに違いない。苦手だ何だと言っていても、こちらの世界の知人と再会できたことで、安心して気が抜けてしまったのかも。
まだ何も進展していないのに。
前途多難だっていうことが、改めて分かっただけだ。
こんなタイミングで寝込んでいる場合じゃないぞ。
そう自分に言い聞かせても、熱で重くなった体はまるで言うことを聞いてくれない。
重いまばたきをする度に、目尻に溜まった涙が肌を伝う。熱のせいか、勝手に目から涙がこぼれてしまうのだ。唇はカサカサだし、ああ、リップクリーム塗りたいよ。多分、学校の鞄の中のポーチに入っている。取ってこようかな。でも面倒くさい。というか、二か月以上も前から触っていないリップって大丈夫なのかな……?
王宮への弁当の配達は、セナさんが代わりに行ってくれている。
今日は訓練場の方だから大丈夫だろうが、明日もお願いすることになったらどうしようか。というか、このままではそうなりそうだけど、セナさん、魔術師が苦手みたいだったよなあ。最初に私を出迎えてくれた、あの感じのいい魔術師さんが対応してくれればいいんだけど。
早く元気にならなくちゃ……。
定食屋の皆にも、迷惑かけちゃ、いけないし……。
再びまどろみの中に落ちた私は、それから暫く眠っていたらしい。
どのくらい時間が経ったのだろう、不意に枕元で聞こえた食器の鳴る音に目が覚めた。
うっすらと目を開けて枕元を確認すると、セナさんがサイドテーブルの水差しとコップを取り替えてくれているところだった。
「あ、ごめんね。起しちゃった?」
「いえ……、お水、わざわざありがとうございます」
声が少しかすれた。そういえば、朝にもおかみさんが水を用意しておいてくれていたけれど、ずっと飲まないまま寝ていたんだった。
「何か食べられそう? おかみさんにお願いしてくるよ」
「いえ、大丈夫です」
窓の外を見ると、夕暮れ時で空が赤く染まっている。
これからまたお店の忙しい時間が始まる。迷惑はかけられない。
「朝から何も食べてないでしょ? ご主人さんもおかみさんも心配してたよ。軽いもんでもいいから、気持ち悪くないなら食べたほうがいいって」
「……はい……」
とりあえず、少しは水分を取らねばならない、ということで、セナさんに手伝ってもらいベッドの上に起き上がった。セナさんが注いでくれたコップを両手で握りしめ、注意しながら少しずつ喉へと流し込む。あー、生き返る……。
「そういえば、今日、お弁当の配達ありがとうございました」
「ああ、いいのいいの。っていうか、配達させて頂いてありがとうございますって感じだしさ」
「え?」
きょとんと問いかけると、途端にセナさんの顔がニヤリと歪んだ。無理やり抑えていたハイテンションが、今にも爆発しそうです、とでもいう様子だ。
「そーれーがーさああ」
鼻息も荒く、セナさんは私に迫った。風邪、移りますよ。
「や、病人のハルカに聞かせるような話でもないんだけどね。それに、いつも頑張って弁当配達してるハルカに、今日たまたま行った私が申し訳ないっていうのもあるし。だから、報告するべきかどうか、すっごく迷ってたんだけどさあ」
今度はくねくねし始めた。こんなセナさん初めて。怖い。
「でもやっぱり、誰かに言いたくて仕方がないの! だから聞いてくれる!?」
「はい。何ですか?」
「今日ね、今日ね、訓練場にノエル様がいらっしゃったのよ〜!」
急激なめまいに襲われ、私は再びベッドに沈み込んだ。