02.

「兄上」
 オーレリーが心底弱り切った声で、階段の青年に声をかけた。
 ははあ、なるほど。魔女はすぐに合点がいった。オーレリーは領主の三男坊だ。上に二人の兄がいるというのは聞いているから、彼は長男か次男というところだろう。
 年は二十の半ば頃。背恰好はオーレリーとほとんど変わらない。滅多にお目にかかれない美形ぶりさえも同じだったが、オーレリーが常にふわふわした雰囲気をまとっている一方で、彼は非常にぴりぴりと厳しいオーラを放っていた。……それは対魔女に限定した話なのかもしれないが。
「全くお前は、本当にどうしようもない奴だな」
 彼は弟に向かって、冷たく吐き捨てた。
「本当に森の魔女を屋敷に連れてくるとは、正気の沙汰じゃない」
「お待ちを、兄上」
 階段を下り、こちらへ歩み寄ってきたオーレリーの兄は、真っ直ぐ射るような眼差しを魔女に向けた。
「魔女の力を借りに行くと言って屋敷を飛び出した時は、さすがに俺も半信半疑だったが。日ごろお前が魔女の元へ通っているという話は本当だったんだな」
 魔女は黙って彼の睨(ね)めつけるような視線を受け止めた。
「全く情けない。バーグソン家の人間が、魔女の悪しき力に魅せられ、取り込まれてしまうとは」
「兄上!」
 オーレリーがたまらずというように声を荒げた。苛立ちを滲ませた彼の声を聞いたのは、魔女にとっては初めてのことだ。
「今はそんな話をするべき時ではないでしょう!」
「だったら話を戻すが、その魔女に母上の生死を委ねるなんて、冗談じゃない。お前一人が道を踏み外すのならばともかくも、母上まで巻き込むことは許さんぞ」
「巻き込むだなんて」
 オーレリーは両手を広げ、兄へとつめ寄った。
「兄上も、医師の説明を聞いていたはずでしょう。母上の病気は、医学の知識だけでは治せない。魔力の介入が必要なのだと」
「だからと言って、得体の知れない森の魔女に助けを請うなど」
「ではどうするのです。身元のよく知れた王宮付きの魔術師を呼んできますか? でも、どうやって? 彼らは国と王族以外のために力を行使することは許されていないのですよ。それとも、他のもぐりの魔術師たちの誰かに依頼を? 兄上には、信頼に足るもぐりの魔術師の知人がいるのですか? ならばすぐにその魔術師をここへ呼んできてください。他に母上を救う方法があるのならば、それでもいい。とにかく現状を打破する最善の方法を示してくださいよ」
 オーレリーの兄はむっと唇を引き結んだ。
 ……ううむ、これはなかなかに激しい兄弟喧嘩である。普段のオーレリーの穏やかな(と言えなくもない)気性からは想像しがたい光景だ。可哀想に、先ほどから柱の影で立ちつくしている使用人たちは、ひたすら息を潜めて嵐が収まるのを耐え忍んでいるではないか。もしかしたら、この兄弟の間では、常日頃からこうしたやりとりが絶えないのかもしれない。
 やれやれ、と魔女は肩をすくめた。
「いい加減におし」
 ぴしゃりと一言。ついでに、よく似た兄弟の顔をそれぞれ睨み上げてやる。
「森の魔女といえど、老婆をこんな遠い屋敷まで呼びつけておいて、ああだこうだと実のない口喧嘩を延々聞かせてやろうってんなら、冗談じゃないよ。アンタたち二人でいくら言い合ったところで、どうせ結論なんて出やしないんだ。なら、さっさと本人の意思を確認してきたらどうなんだい」
 本人の意思。そう、この二人の母親の意思を、だ。
 まだ昏睡状態にまでは陥っていないようだから、魔女の林檎を食べる意思があるかどうかの確認くらいはとれるはずだ。もし彼女自身が得体の知れぬ魔女の差し出したものなど食べたくないと言うのならばそれまでの話。遠路はるばるやってきた魔女にとっては無駄足を踏んだことになってしまうが、まあそこは仕方があるまい。
「ほらオーレリー、アンタちょっと行ってきな。確認の間だけならここで待っていてやる。もしこれ以上兄弟で喧嘩を続けようってんなら、私は帰らせてもらうよ」
「――分かりました。すぐに母に確認して、戻ってきます」
 オーレリーは、呻くような声音ではありながらも、なんとか了承の返事を寄こした。そして、ひたすら気配を押し隠していた使用人たちへちらりと視線を寄こす。
「メイ、彼女をそこの応接間へご案内して。アイラ、君にはお茶の用意をお願いするよ」
 ようやく用事を言い付かった使用人たちは、どこかほっとした様子で頷いた。玄関前を覆い尽くしていた険悪な雰囲気は、ひとまず散ってくれたようだ。オーレリーは後ろ髪を引かれる様子を見せながらも、足早にその場を立ち去った。
 さて、この場に残った兄の方をどうするか――。
 魔女は半眼のまま、自分の傍らに立つ青年を見上げた。彼は心底気に食わないと言わんばかりの表情で魔女を見下ろしているが、この隙に彼女を追い出してしまおうという魂胆はないらしい。きっと彼も頭では理解しているのだ。母親を助けるには、どのみち魔を操る者の力を借りねばならないと。
「言っておくが、これは“契約”だよ」
 魔女はしゃがれた声で、独り言のように呟いた。
「そっちには、『胡散臭い』とか『気に食わない』とか『おぞましい』とか、色々思うところがあるんだろうよ。だがこっちだってそれは同じだ。『面倒くさい』とか『煩わしい』とか『うっとおしい』とか、色々ある。だが、私にとって、“契約”の前ではそうした感情の類なんて一切関係なくなるのさ。依頼を受けて、報酬と引き換えに成果を差し出す。それだけのこと」
「……」
「アンタたちにとっても同じことだろ。今回に限っちゃ特にそうだ。重要なのは“成果”の部分であって、過程だとか方法だとかは問題じゃないはずだ。違うかい?」
 オーレリーの兄は、しばし押し黙ったまま動かずにいた。唇をしっかりと引き結び、じっと魔女を見つめてくる。だが……なにやら様子がおかしい。先ほどまでとは異なり、ただガンを飛ばしているのではない、妙に真剣な色がその瞳に浮かんでいる。魔女は若干の居心地の悪さを覚えた。
「報酬に見合った成果をきちんと引き渡す相手なら、いいんだがな」
 不意に、彼は低い声でそう返した。
「偽りで身を固めているような相手を、おいそれと信用できるわけがない。契約以前の問題だ」
 ん、なんだって? 魔女は眉をぐいとひそめる。
「……お前、その老婆の姿は作りものだろう。なにを考えているのか知らんが、胡散臭い女だ」
 彼はそれだけ言い捨てると、ふんと鼻を鳴らして踵を返した。そしてそのまま振り返ることはせず、無機質な足音を響かせ遠ざかっていく。魔女は呆気にとられ、ただただ去っていく背中を見送った。
 なんなのだ。
 なぜ、そんなことが言えるのだ。
 魔女はぶるりと身を震わせた。
(これは)
 もしかしたら、あの男はオーレリー並に厄介な人物なのかもしれない。
 もちろん、あの変人とは全く異なる意味で――である。

 とにもかくにも、結局契約は履行されることとなった。
 無論オーレリーの母親が頷いたからということにはなるが、ほぼほぼ彼女の夫、つまりオーレリーの父親の意思により決定された結果だと言って差し支えあるまい。彼は妻を非常に気遣い、死ぬほどの心配をして、可能性があるならなんでもいいから飛びつきたいという有様でもって、一も二もなく魔女の助力を請うてきたのである。なんせ、応接間でオーレリーを待っていた魔女のところに飛び込んできたのが、他ならぬ領主自身だったのだ。
「どうか、頼む。我が妻を救ってくれれば、望むとおりの報酬を与えよう!」
 恰幅の良い大柄な中年男に目前まで迫られて、魔女は口元をひくつかせた。癖の強い栗色の髪にほわんと緩んだ優しげな眼もと、そしてややしまりのない口元にちょびりと映えた小さな口髭。どうやら二人の息子たちは、幸運にも母方の遺伝を色濃く受け継いだらしい。普通はくせ毛や栗毛の方が子供に遺伝しやすいはずなのだが……いや、そんなことは心底どうでもいい。
「実は、領地中の魔術師を当たってみたのだが、メディスの林檎という単語を聞いただけで皆顔色を変えてそっぽを向いてしまってな。二人ほど仕事を引き受けた者もいたが、試しに他の魔術を披露させると、これがとんでもないデタラメばかりという始末で」
 領主はひどく嘆きながら、魔女の手をしっかと握りしめてきた。
「その点、お主はなんだかんだと、森の魔女としてそれなりの実績を積んでいる旨、聞き及んでいる。もはや、頼れるのはお主しかいないのだ。頼む、妻を救ってくれ」
 魔女はさりげなく握られた手を振りほどこうとしたが、失敗に終わった。
(これは、オーレリーの兄さんが玄関先で待ち構えていたのも頷けるねえ)
 まさに「門前払い」でもって追い返しておかなければ、とうてい後の収拾が付けられない事態に陥ってしまうことが、彼には分かっていたのだろう。
(この家の常識人はアレ一人なのかね)
 父親と共に応接間に戻ってきたオーレリーに聞いたところでは、例の彼はユーベルと言い、この家の次男に当たる人物だという。長男は国王の命により遠方の地へと出向いており、現在は不在。母親の病状については知らせていない状況らしい。いよいよとなればもちろん長男も呼び戻すが、できればそうなることがなければいいと、オーレリーは沈んだ声で語っていた。
 はあ、全く、やたらと心労ばかりがかさむこの状況。
「ところで、ちょっと聞いときたいんだが」
「なんでしょう?」
 領主の熱烈なアピールからどうにか逃れ、さっそく調理場へと向かう道すがら、魔女は前を行くオーレリーにこっそりと声をかけた。このやたらと長い廊下では二人きりだ。多少混み合った話を振っても構うまい。
「アンタの兄、ユーベルだっけか。もしかして、魔術の心得があったりしないかい?」
「兄上に?」
 オーレリーは顔だけ振り返りながら、困惑した様子を見せた。
「兄上は、魔術だとかそういった曖昧なものをひどく嫌っています。ですから、魔術の心得なんてまるでないと思いますが……多分」
 ためらいがちな返答に、魔女はおやと首をかしげる。
「でも、素質はあるのかもしれません」
「素質?」
「ええ。なんでも、母方の家系は、古くから魔術師を多く輩出してきた一族らしいんです。時代と共に魔術師は敬遠される職業になってしまいましたから、ここ何代かは、そういうこともなくなったようですが。そういうわけですから、兄にも……言ってみれば、僕にもそういう可能性はあるのかも」
「そうなのかい」
 なるほどな、と魔女は内心で納得した。
 それは大いにあり得そうな話だ。思い返してみれば、オーレリー自身にも、強い魔力を秘めているのではと思わせる言動はこれまでにあった。例えば、執拗に魔女の本名を知りたがったことなども、いかにも魔術師らしい執着だ。オーレリーはあの時、無意識にも魔女を“魔術の世界において”手中に収めてやりたいと感じていたのだ。
(しかし、ユーベルとやらはそれ以上だね。私の身にこれほど馴染んだ術をいきなり見抜くってのは、ただ事じゃないよ)
 鍛錬を積んだ魔術師ならば、魔術で偽装した人間の正体を見抜くというのも十分あり得ることだろう。だが、魔力の操り方もロクに知らない人間が「なんとなく」見抜いてしまったというのなら、あまりに素質がありすぎる。
(そういう人間には、なるべく関わりたくないもんだ)
 魔女はふかふかの深緑のじゅうたんの上を歩きながら、気もそぞろにそんなことを考えた。
「リシュー、こちらです」
 その時、オーレリーがとある扉の前で立ち止まった。はっと魔女は気を引き締める。オーレリーに促されて足を踏み入れた小部屋は、なんの変哲もない調理室だった。そうは言っても、塵と砂埃にまみれた魔女のオンボロ台所と比べれば、その立派な設備は眩しいほどであるのだが。
 広いテーブルの上には、あらかじめ魔女が指定してあった道具に食材が、全てきちんと揃えられていた。まな板に包丁、鍋はもちろん、砂糖、バター、香りづけのシナモン。そしてメディスの真っ赤な林檎……。
「足りないものはないはずですが、いかがでしょうか?」
 魔力を伝えやすいとされる、ブリュスの牙で作られたすりこぎとすり鉢もある。材料を煮たてた後で毒素を吸い出すヘレネの茎も。鍋に放り込めば一気に粗熱を取ってくれるメタの石も! ああ、高価でなかなか手に入らないものばかりだ。魔女は思わず目の前の道具たちにじっと見入った。
「リシュー?」
「あ、ああ。まあ、それなりに、なんとかなりそうだね」
「そうですか、それはよかった!」
 ごほん、と魔女はわざとらしく咳ばらいをした。
「数刻もかからず完成するだろうよ。出来上がったら声をかけるから、それまでどこかで時間を潰しておきな」
「手伝いますよ」
 さも当然と言わんばかりのオーレリーを、魔女は険しく睨みつける。
「なに寝言を言ってるんだい! メディスの林檎の扱いは魔術師にも難しいって説明したはずだろう。素人のアンタに手を出されちゃ、成功するもんもメチャクチャになるよ!」
「そ、そうですよね。すみません……」
「手伝うってんなら、そうだね。アンタの兄さんが邪魔に入らないよう、せいぜい見張っておいてもらいたいところだよ」
「もちろん兄に邪魔はさせません。ですが、僕が足止めなどしなくても、兄は足を引っ張るようなことはしないと思います。僕ら兄弟、母を救いたい気持ちは同じですから」
 オーレリーのその言葉を否定するつもりはない。もちろん、魔女とてオーレリーの言わんとすることはよく分かる。それに、見たところ、あのユーベルは弟ほど馬鹿ではさそうだ。状況判断を誤るようなことはしないはず。
 ……だが。
 魔女は胸の奥深くに渦巻く、どろりとした“予感”に気づかぬふりをすることはできなかった。
 なぜだろう、とてつもなく嫌な予感がする。
(どうしたもんかねえ)
 魔女の予感はよく当たる。だからこその魔女、と言ってもいいかもしれない。
(でも、今更逃げ帰るわけにもいかないか)
 ここで全てを放棄して退散すれば、オーレリーの母親は恐らく助からない。だが、このまま林檎の調理にとりかかっても、うまく行くかどうかはまた別問題だ。
 ――成果をきちんと引き渡す相手なら、いいんだがな。
 ユーベルの冷たい声が頭の中に響き渡った。
(迷ったまま取りかかっちゃ駄目だよ、リシュール)
 ふう、と小さな溜息を一つ。
 魔女はメディスの林檎を手にとった。
「……じゃあ、始めるとするかね」


 調理にかかった時間は、一刻と少々。
 全てはつつがなく進行した。
 レシピ自体は非常に簡単なものだ。全ての材料を鍋にぶち込みしばらく煮込む。そうしたら、まだ熱いうちにブリュスの牙のすり鉢に移し、すりこぎでぐちゃぐちゃになるまで押しつぶす。そこへヘレネの茎をそっと差し、林檎の毒素を吸わせるのだ。特に難しいのはここの加減である。吸わせ足りなければ毒は残るし、吸わせ過ぎれば林檎の効能までもが抜け落ちてしまう。それがうまくいけば、メタの小石を放り込んで一気に冷ます。あとは、出来上がった林檎のバターを焼き立てのパンにでも塗って食べれば味もそこそこいけるはずだ。
 魔女は長い間折り曲げたままだった腰を伸ばし、うーんと大きく伸びをした。いやはや、老体に菓子づくりとはとんだ重労働である。
 よたよたとした足取りで部屋の扉を開けると、そのすぐ側にオーレリーの姿があった。結局彼は部屋の外で立ったまま待ち続けていたらしい。本当に、無駄な根性だけは一人前、いや十人前な男である。
「リシュー……林檎は」
「一応、できたよ」
「ほ、本当ですか」
 嘘をついてどうする。そうツッコミたくなった魔女だったが、ひとまず堪えておいた。
「ありがとうございます! では、早速母上に持っていきます!」
「……」
 魔女は目を伏せ、わずかに逡巡した。
「私も付いていっていいかい」
「え?」
「アンタの母親のところへ。メディスの林檎がきちんと効能を発揮するか確認したい」
 もちろん、とオーレリーは頷いた。
「リシューが側についていてくれれば、それほど心強いことはありません」
 その手放しの信頼が、魔女の肌にちくりと刺さる。
「もう一度言っておくが、成功するかどうかは分からない。私はそこまでの保証はできないよ。それは分かっているんだろうね?」
「分かっています。でも、僕はあなたを信じていますから」
 オーレリーは一分の迷いもない笑顔で微笑んだ。