03.

 兄が帰ってさあ落ち着いたと思ったら、今度は弟の襲来である。
 魔女の心休まる時間はなかなか巡って来てはくれない。

 その日、オーレリーは、憤懣やるかたなしという様子で洞窟へと乗り込んできた。

「リシュー、一体どういうことなんです!」
「今度は何なんだい、全くもう」

 ユーベルの来訪から三日と経っていない。
 その間、魔女ディージアの動きも見えないまま、事態は完全なる膠着状態へと陥っていた。さりとて、怒りに任せてやって来たこのオーレリーが、状況を打破する手土産を携えているようにも見えない。携えてきたのは、間違いなく魔女にとっての厄介事だ。

「僕はずっと、納得がいかない中でも、あなたを信じていました」
 ずいと顔を近づけてきたオーレリーに、魔女はわずかにたじろいだ。
「は、はあ? 何を……」
「兄がこの洞窟へ通っているのは純粋に魔術について学ぶためなのだと、そう言ったあなたの言葉を信じようとしていたのに」
「それ以外に何があるっていうんだい」
「僕に言わせるのですか! あまりに忌々しい言葉を!」
 耐えられない、と喚きながら、どさくさに紛れてオーレリーは魔女を思い切り抱きしめてきた。その腕力たるや、並みの老婆ならば一瞬で背骨をへし折られているところである。さしもの魔女も、こらえきれずに変化を解いた。
「オーレリー! 放しなさい!」
「嫌です、放したくない」
「あのねえ、一体何があったのか、こっちが説明してもらいたいところなんだがね!」
 オーレリーのような優男相手でも、さすがに純粋な腕力では敵わない。魔女はかろうじて自由になる手でオーレリーの服を引いてみたものの、何の効果も得られないことを認めないわけにはいかなかった。

「あなたと兄は、この洞窟で、いつも何をしていたのです?」
「微妙にいかがわしい言い回しは止めてもらえないか」

 言いながら、魔女はぐるりと視線を動かした。主の非常事態に、使い魔のカラスと居候の黒猫は一体何をしているのか。残念ながら、こんな時に限って彼らの姿はどこにも見えない。

「魔術の指導と、あとはあんたの家の現状報告を受けていただけだ」
「でも兄は……」
 魔女の腰に回されたオーレリーの腕に、一際強い力が込められた。そろそろ魔女は窒息死する。

「兄は」
「あれが何か言い出したってのかい!?」

「兄は、自分があなたをもらい受けたいと」

「――はあっ!?」

 ぎょっとして魔女はオーレリーの方へと顔を向けた――いや、向けようとした。だが、オーレリーの前髪が魔女の頬をくすぐるほどすぐ近くにあることに気が付いて、魔女はそのまま動けなくなった。

「ちょっと、それはどういう意味!」
「僕が聞きたい。あなたと兄の間に、一体何があったのか」
「何もないに決まってるでしょう。あるわけがない」
「僕はずっと、こうなることを恐れていたんです。あなたのような素晴らしい女性に、兄が心惹かれないはずがなかったんだ」
「干からびた老婆に心惹かれる若い男は、世界中を探してもアンタくらいしか見つからないと思うけどね!」
「でも兄は、あなたの本当の姿を知っています」
 ようやくオーレリーは魔女を解放し、それでも近すぎるほどの至近距離から真っ直ぐ魔女を見下ろした。

「あなたは、こんなにも美しい」
「……アンタねえ!」

 辛抱たまらなくなって、魔女はオーレリーの額をべしりと叩いた。

「よくもそう、次から次へと歯の浮くようなセリフが口を突いて出てくるもんだ。そこいらの娘たちなら骨抜きにされるところかも知れないが、この私が喜ぶと思ったら大間違いだよ」
「そうでしょうね。あなたにとっては、僕からの愛の言葉なんて、この洞窟の石ころ一つ分の価値もないのは分かっています。それよりも、兄と魔術談義に花を咲かせていた方がよほど楽しいのでしょうから」
「だから! どうしてそこでユーベルが出てくるんだ」

 ああ、何と面倒くさい男だろうか。
 知ってはいたが、オーレリーの兄に対する劣等感は相当なものである。普段、魔女がどれだけ彼を適当にあしらっても全くこたえた様子を見せないくせに、ユーベルの影がわずかでもちらつけば、オーレリーは一気に悲観的になる。

「いいかい。はっきり言っておくが、向こうも私も、互いに好意なんてあるわけない」
「そんなこと」
「いいから! 落ち着いて考えてみな。今まで全くそんな素振りを見せなかったあの男が、突然理由もなく私をもらうだ何だと言い出すなんておかしいだろう。当然、何かしらの事情があるに決まってる。アンタ、思い当たる節はないのかい?」

「事情……」
 不意に、揺れていたオーレリーの瞳が、更に翳りを帯びた。
「関係があるかは分かりませんが、最近、父から見合い話を持ちかけられています」
「それだ!」
 魔女はパチンと指を鳴らした。

「オーレリー、簡単なことじゃないか! ユーベルは好きでもない女との結婚を嫌って私を引き合いに出したんだ。もちろん私もアンタの両親も承諾するはずがないのは分かりきっているから、それで時間を稼いで、今度の話を煙に巻こうと考えたんじゃないのかい?」

 いやはや、いかにもあの男の考えそうな迷惑極まりない作戦ではないか!
 だがしかし、オーレリーは浮かない表情のまま視線を足元へ落とした。

「いえ、結婚の話を持ちかけらえているのは、僕の方なのです」

 魔女は目をまん丸に見開いて、固まった。

「え……、今なんて?」
「ですから、父が見合い結婚を持ってきたのは、兄ではなく、森の魔女に現を抜かして日々放蕩している僕の方なのです」
「な、何だって」

 魔女は大いにたじろいだ。
 オーレリーに見合い話? 聞いていない。全くもって聞いていない。

「いつからそんな話が」
「最初に話が来たのは、僕があなたと出会うよりも前のことです。とは言っても、その当時は、兄か僕のどちらかに、という程度の話でした。それに結局、具体的な話にまでは発展しなかったんです。母がこの縁談には難色を示しましたので」

 ――魔女と出会うよりも前から。
 この馬鹿、どうして一度もそういう話をしなかった!
 魔女は理不尽な怒りに思考が支配されていくのを自覚した。ああ、駄目だ。冷静にならなければ、その後に続くオーレリーの言葉が頭に入らなくなってしまう。

「……アンタの母親が難色を、って、またどうして」
「相手は名門一族のご令嬢なのですが、同時に彼女自身が国家魔術師でもありました。今思えば、母はディージアとの過去を知られることを恐れ、国家魔術師との縁を疎んだのでしょう」
「国家魔術師だぁ?」
 押さえつけたはずの魔女の怒りが、再び爆発しそうになった。

 そんな魔女の怒りをよそにオーレリーが淡々と語ったところによると、一旦立ち消えになったこの縁談、今回のディージアの一件で国に頼らざるを得なくなった結果、再び降って湧いてしまったということらしい。

 オーレリーの父としては、今現在はもとより、今後も妻が魔術絡みで災難に巻き込まれる可能性がある以上、国家魔術師と繋がりを持てるならばそれに越したことはない、という考えのようだ。それに、ディージアの件で国に迷惑をかけてしまっていることもあり、お上(かみ)から再度推された縁談を無下にするのも難しいという事情もあるのだろう。

「本来ならば次男であるユーベルから、というのが筋なのでしょうが、何せ僕はあなたに夢中で親の納得する相手を見つけてくる気配もない。兄より僕の方が心配だと父は判断したのでしょう」

 魔女は唇を引き結んだ。
 至極まっとうな話だ。領主として、父親として、正しい判断だと素直に思える。だが、何故か相槌を打つ気にはなれなかった。

「もしや、今アンタの家に出向いてる国家魔術師っていうのが」
「ええ。数名いるうちの一人が僕の見合い相手だそうです」
 魔女は痛む頭を押さえてため息をついた。
「まるで他人事のような言いぐさだが、もちろん既に顔は合わせたんだろう」
「まあ、そうですね」
 この男、興味のない相手にはここまで無関心になれるのか。
「とにかく、そういう訳なので、兄があなたに心惹かれた『ふり』をしなければならない理由には繋がらない気もします」
 確かに、ユーベル自身に火の粉が降りかかってきたわけではないのだから、あえて魔女に気のある素振りなど見せる必要がない。
「他に思い当たる理由もないですし、やはり兄は、本気なのでは」
「そんな訳がない」
 思い当たる理由はないが、こればかりは断言できる。
 あの男が、誰もが恐れ敬遠する、森の老魔女に惚れ込んだと? あり得ない!
「……ユーベルは他に何か?」
「詳しいことは何も話してくれません」
 あの男め。一体何を企んでいるのか。
 魔女は忌々しげに舌打ちをした。

 その時だった。
 不意に、魔女の五感が微かな違和感を捉えたのは。

 何者かが、この洞窟に足を踏み入れたのだ。

 ただの町人ではない。
 今は憎きユーベルでもない。
 見慣れぬ「魔力」の気配を纏う、何者かの侵入。――一瞬、ディージアかとも思った。しかしどうやら違う。こういう気の纏い方をする人種を、魔女は知っている。

(これは)
 薄暗い通路の向こう側を睨(ね)めつける。
 魔女の様子に気づいたオーレリーも、怪訝な表情で背中を振り返った。

 やがて姿を見せたのは、一人の若い女性である。

「取り込み中に失礼いたします」

 白銀の髪に、深い紫色の瞳。
 人形のように整った顔立ちの女は、長いまつげを揺らしながら一つ瞬きをした。
 身にまとったローブの胸元には――国家魔術師の紋章。

「あなたが森の魔女ですね」

 陰鬱な洞窟に似合わぬ、透き通った清涼な声が静かに響く。

「私は、国より派遣された魔術師のサラシャと申します。以後、お見知りおきを」